どを論ぜず内助の功をあげることを終生のよろこびとする、そのような女を、明治の日本は理想の娘、妻、母として描き出したのであった。三十二年の高等女学校令は、四十二年後の今日に迄つづいていて、その精神は、古くもないが決して新しすぎもしない若い女の産出をめざしているのである。
六十六歳の福沢諭吉が、日清戦争の勝利の後の日本が、一応進歩的傾向での安定を見出したこの三十二年に「新女大学」を発表したということは、なかなか複雑な社会史的ニュアンスがこもっていると思う。
大体福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んで、それに疑義を抱き、手控えをこしらえはじめたのは彼の二十五歳の年、大阪から江戸へ出た時代の事である。「学問のすすめ」は明治五年にあらわれて、日本の黎明に大きい光明を投げたのに、「女大学評論」と「新女大学」とは「幾十年の昔になりたる」その腹稿をやっと三十二年になって公表の時機を見出したということには、それ迄の日本が岸田その他の婦人政客を例外的に生みながらも、全体としては「真面目に女大学論など唱えても」耳を傾ける人のすくない状態におかれていたからにほかならない。
婦人の独自な条件に立って体育、知育
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