は私たちに何を教えるだろう。それぞれの人の為人《ひととなり》の高低がそこに語られているばかりでなく、婦人そのものの社会的自覚が、その頂点でさえもなお遙かに社会的には狭小な低い視野に止っていた日本の女の歴史の悲しい不具な黎明の姿を、そこに見るのである。
景山英子は、その生涯の間には、婦人の社会的向上の問題の理解を次第に深めて、明治四十年代「青鞜」が発刊された頃には婦人の社会的な問題の土台に生産の諸関係を見、婦人の間に社会層の分裂が生じる必然の推移までを見て、平塚雷鳥が主観の枠内で女性の精神的自己解放をとなえていた到達点を凌駕した。彼女は明治三十四年に女子の工芸学校を創立したりして、婦人の向上の社会的足場を技術の面から高めて行こうとする努力をも試みたのであったが、その業績は顕著ならずして、時代の波濤の間に没している。
明治二十年以後の反動期に入ると、近代国家として日本の社会の一定の方向が確定したとともに、婦人に求めてゆく向上の社会的方向もほぼ固定しはじめた。当時日進月歩であった新日本の足どりにおくれて手足まといとならない範囲に開化して、しかも過去の自由民権時代の女流のように男女平等論な
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