と、とかく間違いないという面でだけ内容づけられて来たのが旧套であったと思う。どこへおいても大丈夫なひと、そういう表現の与えられることもある。しかし、旧来そう云われる標準は、常識のどこに根拠をおいているかと考えると、自信がなくてと不安がっている若いひとも、時には互にくすりと眼くばせし合って、私これでなかなか信用があるのよ、と笑い合う経験はもっている。この罪のない可愛い諷刺は、おのずから昔風な信用への判断、それにつづく批判として溢れているものではなかろうか。自分たち若いものの活溌な真情にとって、人間評価のよりどころとは思えないような外面的なまたは形式上のことを、小心な善良な年長者たちはとやかく云う。けれどもねえ、そればかりじゃあないわねえ、その心だと思う。
 ところが、いざ自分のその心の面に立って自分としての判断を現実にながめなければならない段になると、自信がなくて、ということになる。自分の判断に従って果して誤りはないか、大丈夫だろうか、そこが不安というわけで、一旦は否定してそこからはもう自分の生活感情が舟出してしまっている筈の女の歴史の旧《もと》の港をふりかえるのである。そこではどっさり
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