ういう才覚もあるひととも思える。
それならそれとして、やっぱりあれは私たちを考えさせる一ことであった。あのひとが、その映画のなかでよかったらそれでいい、と好きという表現をそらした心理をさぐってみれば、好きという内容は、どこかでその映画のなかでの芸術的味いにあふれた、俳優の体にくっついたものとして感じられている証拠であったと思う。もし、私たちが云う意味での好きというのが芸術に表現されている世界でのことというはっきりした目安がなかに立てられていれば、全くあけすけに、あああのひとは好きだ、あれはやりきれないと云いきれると思う。この場合、相手が女にしろ男にしろ、こちらの感情の焦点は、あくまでその人々たちの共々のよろこびにある。その男や女の演技の性格、味いへの共感として、率直に表現されているのである。
こういう風に見て来て、あの答えを考え直すと、あのひとは日ごろ何と云っても曖昧な鑑賞の態度で映画も見ているのだと思う。自分にはっきり、よさ[#「よさ」に傍点]を感じる自分の心持の本質がつかめていないのだと思う。だからいざとなると、主観の上での好きさにたよって云うのもそこらの娘っこのようでいやだし
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