分はしみ入って来るのだが、遺憾なことに、現代の頽廃の毒気がある程度まで智慧の働きに作用している。最後の一、二ページで、作者は、亮子にほとんど過重な内的容積をもり込んでいるのであるが、「近頃どんな映画を見ても演出を見ても『なんだここが見せ場か』『ここが山か』と案外その見せ場や山が大したものでないのにガッカリしている」だが「こんなことは何気なく成行にまかせながら、自分は始終きびしい一心で自分を律して[#「一心で自分を律して」に傍点]いればいいのだわ」と、気をとり直すのである。しかし作者は計らずもここに到って一つの大きい輪を描いて、自身がすでにその作品の前半で呈出している批判の中へ舞い降りてしまった。一定の自戒をもち、それを守ることそのものを生活の目的のようにして生きている梅雄に友人団が「ただ君の情熱は中ぶらりんで方向がないね」といい、作者はその評言の社会的な正当性を認めている。丁度その評言の真只中に全篇の終りは曲線を描いて陥りこんでしまっているのである。
残された一つの疑問
「習俗記」(芹沢光治良・改造)「葉山汲子」(舟橋聖一)「新しき塩」(荒木巍・中央公論)「未練」(
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