積極的意企をもった文学作品の中には、情熱を欲する感情というものが、つよく緊張していることを感じられる。しかし、それはどこまでも情熱を呼び出そうとし、それを欲している感情であって、情熱によって不屈に試みられた人生発掘ではない。このことはこの二、三年間のさまざまな思想的文学的態度の提唱の中にも感じられることである。
日本人が、感情的、情緒的であるという特徴は、どこから来ているのであろう。人文地理的な説明だけでは私には納得しきれない。スペインのこんにちの燃え立つ階級間の争闘を、柳沢健氏が、その民族の持っている一本気で純朴で誠実な徳性によって、惨虐性にまで進められてあるのだと説明していることだけに(中央公論「西班牙を想う」)あきたりないと同じように。思想的・文学的な内容において情熱という言葉が日本に導き入れられたのは、北村透谷によってであったということは、意味ふかい一つの事実である。そして、同時代人の島崎藤村氏が、こんにち「夜明け前」を完成し、国際ペンクラブ東京招致に成功したりしているのは、その実際の生き方において透谷とは対蹠的な方法を選んだ計画性のためであることも、また、私どもにつたえられ
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