におさまれるのが、この世の現実であるならば、子供らにとって次第に荒いものとなるその生涯の路上で、堅忍であり、努力的であることも、いわばきっと貰える御褒美めあてのようなもので、たやすいことではないのだろうか。ディケンズが英国の近代資本主義勃興期に生きた作家であった歴史性が、こういう面にも錯綜した形で反映していると思うのである。
現代の子供には、きょうの物語がなくてはならない。今日の科学と今日の社会との間で、人間らしい勤勉さ、正義心、人類の発展に対する深い理解と信頼と、そのために献身する人々の生涯の価値が評価できる人間になるに役立つ文学が、小さい人々、われらの後継者のためになくてはならない。
女のひとの文学的な活動の一つの面として、これまでも、子供のため、小さい人々のための文学制作のことはいわれてきた。「アンクル・トムの小舎」の作者、「ジョン・ファリファックス」の作者、「小公子」の作者。これらの人々はいずれも婦人であり、母であり、これらの古典的物語は、先ずその子供たちをききてとして書きすすめられたものであった。セルマ・ラゲルレーフは、彼女の児童のための文学によってノーベル賞を与えられている。
日本では、女の生活は家庭の内で、極度に子供と結びつけられており、おそらく世界の文明国の中で日本の母親たちほど子供のために生涯の全時間を費しているところは他にないであろうと思われる。それにもかかわらず、全般的に女が置かれている社会的な地位が低いことは、家庭の中にも現れて、良人、子供のために身を削る労苦多い妻、母としての毎日の生活が女に与えられている。「子は三界の首っ枷」という俗間の言葉は、日本の従来の家庭の内部をまことにうがっている。これまで多くの母は、家のやりくり、良人の世話、非計画的に生れる子供らの世話で忙殺され、子供らの文化の与え手となるまでのゆとりはなかった。母たち自身が、ああ、どの位その望みをみたされぬ自分のお伽噺をもって、いたずらに老いて行ったことであろう。まだまだ今日といえども、母自身十分の文化的光明に浴し得ていない。次の時代の人々の成長のための贈りものとして文学を与えるところまで、母たち自身の社会的生活の内容がひろやかに高められていないのである。
貴司悦子さんの近著『村の月夜』を贈られ、それを通読して、私は、母である女のひとが自分の文学的な才能を、子供のために
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