活かすことの自然さに打たれるところがあった。「ローラア」「にわとり」「乗合自動車」などは、直接幼い子供の感覚の内に入ってそこから描かれている自然さがある。とくに童謡「停車場」などは、大人のこしらえる童謡につきものである甘たるさ、感傷がちっともなく、子供が眼玉をぐりっとむいて、一生懸命眺めている停車場の感情がそっくり表現の中に生かされていて、たいへん爽快である。「おちば」は、やや長じた子供らに、社会の現実生活を感じさせ得るであろう。「おちば」や「御褒美」には、子供が大人の生活に混ってくる道どりやそこでの日常的な労作への結合の必要を暗示している作者の目がある。この作者としてこの「村の月夜」は第一歩の仕事であり、作品の内容も従来のお伽噺とは全く異った現実日常生活からの面白いお話への試みが示されているのである。
私は、こういう境遇にいる一人の母である作者が、永い将来の努力によって、次第に子供のための文学として、質量ともに逞しい生産をされることを切望する。その期待につれ、「村の月夜」で、私に印象された一つの疑問に触れたい。それは、この作者が、「おちば」などの背後に、社会の現実を正面から見とおしてゆこうとしているまじめな目を暗示させながら、なお、子供の世界に一種の大人としての美しさというか、品のよさというか、そういうものを外からもちこんでいる箇所がないではないことである。主として、用語の上に、この作者の微妙な内部的の複雑さが現れている。たとえば、作者は、「花」を「お花」といい「空」を「お空」といっている。何故「お」という敬語的な冠が空にいるのであろうか。空は空として芸術的にまったく美しい。そして、科学的の正しさにおいても心配はない。花は花であるからこそいきいきとして目と心を奪う花なのではないだろうか。お花といわれると私たちは仏さんのお花という連想があったり、お花のけいこにつながったり、花そのものには不用な形式的なものをつけ加えられる。子供のための文学の作者のよい感覚は、子供の感情再現の内容をつくる、そういう用語の上にも敏感、率直、清潔であらねばならない。こしらえられたいわゆる品のよさがどんなに言葉から生気を奪い、またそのことでそういう言葉が趣向にかなう一定の非大衆的な社会環境というものさえ暗示されるものである。これらのことは、「村の月夜」の作者のよく理解するところであろう。
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