生の母である。やはり、生活に不安はない家庭の母である。息子がひっぱられたりすることは元より嫌いで、ひそかに息子がそういうことにならないためには大いに努力している小市民的な母ではあるが、避け難いことが起ろうとする前夜、彼女は出てゆく息子に、色のない唇でわずかに囁いた――「さむくなるから――かぜひかないでね。――母さんは。母さんは。――」と。これは断々《きれぎれ》な、とり乱した言葉である。が、切られない愛で息子の心中にある何ものかの横へまでこの母は思わず擦りよって行っているのである。
「波」の中にある言葉に従えば、山本有三氏はこの社会というきたない大溝へ、せめて清水を流し込もうとしている一人の作者だと思う。この作家を愛する読者は、それらの読者に愛されている全くその原因から、この作者の特質である人生的テーマが、現代の複雑な情勢の間で、今日或る危機に近づいていることを敏感に知らなければならない。「生命の冠」などに、世俗的悲惨をのりこえるに堪える高い意気をもって表現されていた人間としてなすべきことを為す気魄は「女の一生」に於て少なからず紛糾し、明らかな方向を示し得ない形で出された。「真実一路」に
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