暑さは、かなり凌ぎよかったらしい。八月頃だったのに、弁当やその他の荷を、少からず背負いながら、三郎はそんなに暑いとも苦しいとも思わなかった。
 まだ惜しがって切らないちょん髷の上から、浅黄の手拭を被り、その上に笠を戴いた彼は、腰切の布子一枚の軽い姿で、山沢さんのすぐ傍から、山路を歩いて行った。
 二人の下役の思惑などを構っている彼ではない。若しかすると、まだ使われてから日の浅い彼等に、自分の信任の度を、歎賞させるためだったかもしれないが、まるで兄弟分のように山沢さんの傍にくっついて行ったのだそうだ。
 彼はもちろん、意気揚々としていたから、あとでその下役が山沢さんに、
「いったいあの男は何者でございます、どうもはや……」
と云ったとき、
「なあに彼かね、彼はあの通りの奴じゃよ、しかし、憎くはない奴さ」
と笑ったなどということは、おそらく今も知らないだろう。山々の峰に反響するような声で、絶えまなく自分の手柄話をしながら、湖水の見える村へ入ると、第一に感歎したのは彼である。
 何とも云えないほど、湖水は広々としている。美しい。まったくこの上なく美しい。
 三方を緑の山々に囲まれて、微風に小
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