あっても、一言山沢さんに、
「オイ三郎、きっと頼んだぞ」
と云われさえすると、ほとんど絶対的服従をしなければいられないものが、彼の胸の中にあった。
山沢さんが自分の持つ信頼に就て、一言も説明しなかった通り、彼も自分の中にある主人へのその心持を、ただの一度も説明したことはない。
もう二十年近く前に死んだその人の噂を、彼は今もよくする。
旦那様という代名詞こそ使え、言葉なり批評なりは、弟か、従弟のことででもあるように、自由な、心の望むままの形式で話す。悪口を云いながら、わがままをしながら、山沢の旦那様には、命も惜まない愛情を彼は感じていたのである。
七
彼の山沢さんに対する愛情は、相手が山沢さんだからというのでもないし、主人と使われる者との間にはとかくありがちな、因縁ずくの諦めなどでは、無論ない。
彼自身、自覚したかしないかは分らないが、堅い言葉でいえば、「己を知る者のために死す」心持が、彼と山沢さんとの間に、靄然《あいぜん》として立ち罩《こ》めていたのである。
彼の強情を理解し、制御するだけの強情は自分も持ち、長所に依って彼の欠点を寛恕《かんじょ》して行く
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