てそこから呑吐される無数の男女が、まだ光りの足りない払暁の空気のなかで艶のない顔色を忙しそうに靴や下駄で歩いている姿をこっちで見ているのも珍しかった。ふだんなら自分も今あっちのホームをゆく娘のように小さい風呂敷包みを胸の前にかかえて王子の通りを歩いている時刻なのである。今朝の特別さがまざまざとしてサイが思わずショールをひろげ直したとき、頭の上でラウド・スピイカアが急に鳴り出した。
「三等車はホーム中央事務室より後の方でございます」
 サイばかりではなく、黒いレース・ショールの女も大きい折鞄を下げた国防色の服の男、巻ゲートルの男、一団が前後してラウド・スピイカアが同じ文句をくりかえしている下をぞろぞろとそっちへ行った。
 速力をおとしてホームに辷りこんで来た列車の、ずっと後方の一つの窓から、日の丸の紙旗の出ているのが見えた。おや、とサイが目を瞠《みは》るのと、
「あれです、あれです、日の丸を出すッて云ってよこしているから」
とせわしない男の大声がするのと同時であった。そう云ったのは巻ゲートルの男で、どこからか自分も日の丸の紙旗を出して、頭の上に高く振りかざしながら体の幅で人ごみをかきわけかきわけ進んでゆく。サイは胸が一杯で、頬っぺたのあたりを鳥肌たてながら、おくれないようにその男のうしろにつづいた。
 巻ゲートルの男が、合図の日の丸と帽子とをいっそくにつかんで朴訥そうな若い教員に挨拶しているわきをぬけて、サイはそこに二列に整列している三十人ほどの少年たちの一つ一つの顔をのぞいて行った。
「勇ちゃん」
 皆と同じように小倉服に下駄穿きで足許のホームに小型の古い支那鞄をおいて立っている勇吉は、サイの声がきこえないのかぼんやりした視線を周囲の雑踏に向けたままでいる。サイは思わず故郷の訛をすっかり出して、
「コレ、勇ちゃんテバ!」
と弟の肩をゆすぶった。
「なーにぽけんとしてんのヨ」
 目へ涙をうかべながら笑って自分をゆすぶっている桃色のレースの派手なショールをした若い女が姉のサイだとやっと判ると、勇吉は、
「おら誰かと思った」
 笑いもしないでそう云って、すこし顔を赧くした。三年会わない東京ぐらしのうちにサイは二十になり、こうして勇吉は小学校を卒業して来た。いろんな気持を云いあらわしようもなくて、サイは、
「荷物こんだけ?」
ときいた。
「うん」
「田岡のばっぱちゃん丈夫か
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