三月の第四日曜
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)軋《きし》んだり
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)青|蝋燭《ろうそく》の列に思える。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「女+尾」、第3水準1−15−81、384−11]《くど》く
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一
コト。コト。遠慮がちな物音だのに、それがいやに自分にも耳立って聞えるような明け方の電燈の下で羽織の紐を結んでしまうと、サイは立鏡を片よせて、中腰のままそのつもりでゆうべ買って来ておいたジャムパンの袋をあけた。
寝が足りないのと何とはなし気がせき立っているのとで、乾いたパンは口のなかの水気を吸いとるばかりでなかなか喉を通りにくい。一つをやっと食べたきりで袋を握って隅っこへ押しつけ、ハンドバッグとショールとをかかえて台処へ出た。
水口がもうあいている。ポンプと同じさしかけのところで燃えついたばかりの竈が薪のはぜる音をさせている。その煙に交ってふき出す焔の色が、あたりにまだのこっている眠りの深さを感じさせる。サイが新聞包からよそゆき下駄を出していると、遠くの闇を衝き破るような勢で始発間もない省線が通る音が風にのって来た。
外へ出てみると風は思ったよりきつくて、タバコの赤い吊看板が軋《きし》んだり、メリケン袋をはいでこしらえた幕をまだしめている駄菓子屋のガラスが鳴ったりしている。
上野駅へついたのは五時二十分前ほどであった。ガランと広い出口のところに宿屋の半被《はっぴ》を着た男が二人、面白くもない顔つきでタバコをふかしながら、貧乏ゆすりしているばかりで、人影もろくにない。中央の大時計に合わせて紅いエナメル皮で手頸につけた時計を巻いてから、サイはまた不安な気持になってハンドバッグをあけた。折り目の擦れたハガキには、五時ごろ上野駅へ着くそうです、と鉛筆で書かれている。五時ごろ着く汽車と云えば、ゆうべわざわざ王子の駅まで行って調べたときも、四時五十八分というのしかないのであった。
吹きとおす風をホームの柱によってふせぐようにして佇《たたず》んでいると、やがて貨物運搬の車が入って来てサイの立っている少し手前で止った。駅員も出て来た。どの顔
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