んではない誰かの前で抱えている新聞包をあけて、堅くなった蓬餠でも焙《あぶ》りながら、三年会わなかった弟の勇吉が駅で自分を見それて、吃驚《びっくり》したように誰かと思ったと云った話もしたいのであった。故郷というものがひどく近くてまた遠く思える心持もきょうの気持も何だか誰かに話したい。そんなことも話せるようなところはどこだろう。
停留場の赤い柱の下で桜模様の羽織の袂や裾を風に煽られながら、サイはぼんやり電車を一台やりすごした。
二
いく種類もの作業場が棟々に分れていて、石炭殼をしいた道がポプラの並木のある正門からそれぞれの方角に通じている。
門のところに立っている守衛が、朝入って来る娘の挨拶のしようが悪いと、生意気なと一度でも二度でも礼をやり直させる。そこはそういう気風を寧ろ誇っていた。そして、四月に入ると、女たちが羽織を着て来ることを許さなかった。帯つきに、定められている作業服を着て門を潜らなければならないことになっている。
広い敷地の、その辺は元何だったのか三四尺ばかり小高く土の盛り上った所があって、青々した雑草まじりにタンポポが咲いたりしている。そこへ腰をおろして、何ということなし伸して揃えた足袋の爪先が春日に白く光るのを眺めている娘。作業室の羽目にあっち向きに並んで、背中を照らされながら喋っている娘たち。ここは本を持ち込むことはやかましく禁じられていた。だから昼の休みも毎日こんな風にして過ごされる。
胸に番号のついた作業服を着たサイと弓子とは、石炭殼の道を購買の方へ歩いていた。事務室の裏手つづきで、どの作業場からも真直来られる車軸のようなところに、小さい市場ぐらいな購買がある。ボルトで締めた高い天井の梁や明りとりのガラスの埃がこの頃の陽気で目立つ。相当こんでいる三和土《たたき》の通路を二人は菓子部へ行った。ここの蕎麦《そば》ボーロが王子の婆さんの好物で、サイは時々買ってかえってやっている。
呉服部のところで、ケースの上にくりひろげてある絹セルや夏物柄の銘仙をちょっとさわって見たりしながら、
「これ、本当に銘仙なんかしら」
弓子が心元なそうに呟いた。
「私たち、折角働いてこしらえたって、この頃のものなんか何こさえているんだか分んないみたいで詰んないわ、ねえ」
月賦がきくのと時間がないのとで、娘たちはつい購買で拵えることになるので
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