というような困った表情をした。
「ハハハハハ、まアいいさ。あとで旦那さんが見えるから、御挨拶しな」
じゃあ、これは支配人というんだったのかと、下を向いたままサイは何だかおかしさと馬鹿らしさがこみあげた。何て主人のように物を云うんだろう。
「ねえちゃんのいるのはどこだい?」
姉ちゃんというより姐ちゃんという風にきこえる問いをひきうけて、
「どっか王子の方ですってさ」
わきからおかみさんがバットに火をつけながら答えた。
「工場なんですって」
「こっからは――大分あるな。近すぎるよりは身のためだ。家へもよく云ってやって下さい。たしかに引受けたからってね」
「どうぞよろしくお願いします」
サイは頭を下げた。
「じゃ、装《なり》みてやって」
「そりゃあなた、新どんに云ってくれなけりゃ」
「あ、そうか」
片方は懐手のまま立ち上りながら、
「今仕着せを出してやるから、着たら店へ来な」
「さ、私もこうしちゃいられない」
従ってサイも勇吉も坐っていられなくなって廊下へ出た。
二階へ戻ると、サイは寂しい眼色をしながら黙って新聞包の土産をわけはじめた。
声を出したら涙が出そうで、弟の顔を見ず格子をしめ、さて問屋町の往来へ出て、サイの気持は全くとりつくはがなくなった。まだやっと九時すこしまわったばっかりだった。日の暮れるまでにはうんと時間がある。きのう、是非にと今日休ませて貰うように頼んだとき、伍長は、サイさんがそんなに迄云うんならよくよくのことだろう、よし。と許してくれた。そのときは勇吉を出迎えるというだけで心がいっぱいで、こんなにあっけなく別れたあと、あまった一日のつかいみちに困ろうなどとは念頭に浮んで来なかった。
いかにも王子の家へこのまま帰る気はしない。何処か行くところはないかしら。風で揺れているような春の陽を真正面にうけながら、ともかく停留場へ向って歩いているサイの頭に浮ぶのは、せむしのごく意地わるなお針屋だの、三ヵ月ほど女中に行っていた勤人の家、さもなければ、同じ村から来ているフサイのところぐらいのものだった。フサイのいるのは目黒だし、女中をしているのであったから急に行ったところで、立ち話が関の山である。自分ひとりが休んで出て来ているのだから今の勤めの友達のところへ行ったっていないことは知れている。どこか行くところはないかしら。サイにすれば、王子のうちの婆さ
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