待っていて、
「よく気をつけて行ってらっしゃいね」
と繰返し云っている。
 宏子は部屋へ戻った。同室の三輪が、衣裳箪笥の内側についている鏡を上目で見ながら、湯上りのしめった髪に丁寧なわけ目をつけていた。
「――お風呂へ入るならいそがなけゃ駄目よ」
「ありがとう、いいわ。家で入って来たから」
 三輪は隅から桃色フェルトの上靴を出して穿きかえた。そうした上でもう一遍鏡の中の自分を振かえってそこを閉めると、机のところへ来て腰かけた。ずーっと腰をずらして、頭を低くかけ、
「ねえ、加賀山さん、わたし憂鬱になっちゃった!」
 持ち前のすこし鼻にかかる声で云った。
「ふーん、また?」
「またってなにさ」
「だってあなたって人は朝昼晩と憂鬱がっているんだもの……」
 室内に点されたばかりの灯の色が、窓硝子に美しく映って見える時刻であった。
「だって仕様がないわ、そうなんだもの。きのう環さんとシネマ見て来たのよ。あっちの学生生活を見たら、つくづく私たちなんて詰らないもんだと思っちゃった。何処に我等の青春の歓びありや」
 最後の一句だけを、三輪は詩でも諳誦するような調子で英語で云った。宏子は、おこったよう
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