あった。
「誰がいるのかと思ってびっくりした」
 思いがけなく、それは瑛子の声であった。宏子は、自分の書きかけていたものを、テーブルの上でそれとなく裏返し、振かえった。
「――寝てらしったんじゃないの?」
 瑛子は曖昧に、ああと云い、
「お前こそ、どうしたの? 寒くないかい」
 卓子によって来て見て、
「おや、何か書いてたんだね」
と云った。
「うん……何しろノーベル賞金だからね」
 まだ心の半分はあっちにある風で、宏子がそう答えた。瑛子は、どうして女に医学博士はあるのに文学博士は出ないだろう。お前も文学をやる位なら、ノーベル賞金をとる位の意気でおやり、とよく云っているのであった。
 瑛子は、娘の冗談に笑おうともせず、両方の袂を胸の前でかき合わせるようにしてストーヴの前のソファにかけた。浴衣をかさねた寝間着の裾が足袋の上にやや乱れかかっていて、古い棒縞糸織の羽織をきている。スタンドの遠い光線からも少しはずれると闇へとけ込む場所に、黙って腰かけている母の姿には、宏子の注意をひきつける、真実なものがあった。暫くその様子を眺めていて、宏子はやさしく、
「ストウヴつけましょうか」
と訊いた。

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