曜は平気だわ」
「相当みんなこの辺をぶらつくんだろう?」
「大抵新宿」
青年はこれも目立たぬ鼠色のソフトをかぶった頭を心もち右へ傾けるような癖で娘の方は見ず暫く黙って歩いていたが、やがて、ゆったりした口調で、
「ここを曲ろうか」
人通りの劇しい表通りを左に折れた。娘も素直にそれにつれ、羽織と対の大島絣の裾を学生っぽくさばきながら並んで足を運んでいるのであったが、いかにもよそ行きという風に、ほんのすこし紅をつけている彼女の口許には、何か云おうとしてうまく言葉の見つからない焦燥のようなものがあらわれた。山本はる子という本名のかわりに、背が割合高いから高井がいいだろうと笑いながら仕事の上での呼名を彼女に与えた兄の静岡高校時代の親友、佐藤重吉という代りに太田と呼ぶような全く新しい組織的な関係でこうして折々会うことになった重吉に対して、はる子は一つの聞いて貰いたい自分の感情をもっているのであった。
赤い毛糸の腹巻きをして上体を左右にふりながら岡持ちを片手に鮨屋の出前が狭い鋪道を縫って走って来た。それをよけるはずみのように、はる子は熱心な顔つきのまま、
「でも私うれしいんです」
いきなり、
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