私たちは深く留意する必要があると思う。この問題が、もし今日ジョルジ・サンドが「アンジアナ」(岩波文庫)の序文で希望し説明している方向に解決されているなら、女性が最ものびやかであると云われているアメリカから、パール・バックの「この心の誇り」の悲劇は発生しない筈なのであるから。
日本の近代文学のなかには、「車輪の下」「プチ・ショーズ」と並ぶ種類の作品は思い浮ばない。日本近代精神のこの特徴はまた意味ふかいところで、一つの原因は、少くとも明治に入ってからの若い時代の教育はフランスやドイツのような宗教の根ぶかく残酷な独断に煩わされ毒されていなかったという実際の条件があげられると思う。明治の啓蒙は福沢諭吉などの努力と貢献によって、人間の明るく健かな合理を愛する知性に向って、暗い封建とたたかうために指導された。しかしながら、ヨーロッパ風な宗教の重圧とはちがう日本の封建の重しはそのものとしてはなはだ複雑で、その埒からより広い精神の世界に飛び立とうとする羽ばたきは、近代の日本文学のあらゆる段階に響いている。明治二十年代のロマンティシズムもその後の自然主義も、その羽音には、過去の因習に対して人間精神の自立と勝利とを求める響をつたえているのである。それにもかかわらず、過去からの影はどんなに深い密雲で若々しい精神の行手を遮り、その方向をかえ、或は中途で萎靡させたかという悲痛な歌の曲節も同じく近代日本文学のあらゆる段階の消長とともに響いているのである。
それらの歌が、日本の近代文学のなかでは少年の内的生活の波瀾の描写としてよりは、青年期の憂悶としてとらえられていることも私たちの注目をひく。島崎藤村の「春」「桜の実の熟する時」はいずれも明治二十年代のロマンティシズムのなかに生れ二十歳前後の青年文学者の心の動きを跡づけたものである。志賀直哉の「暗夜行路」は青年から壮年にわたる日本の一知識人の内的過程を描いたものとして意義をもつものである。
それならば少年少女の心の生活は、日本においてはそんなに幸福で大人の世界との摩擦もなしにすくすくと伸びられていたのだろうか。その点についての実際は例えば細井和喜蔵の「女工哀史」などはただ一巻の頁のうちに若く稚い魂と肉体の無限の呻吟をつたえている。そうだとすれば、何故、近代日本の文学の作品は異った形でいくつかの「車輪の下」や「プチ・ショウズ」を持たなかったのだろう。
明治以来の文化の成長は未だ封建を脱皮しきっていなくて、日本の社会と家庭の生活における少年たち少女たちの存在は、自分を一人の人間として明瞭に自覚することを非常におくらされて来ている。青年期にずっと近づいて初めて自分の周囲に対する目と心とを開かれる。そのことから作家たちが稚く若い日の心の成長の苦悩を描こうとする場合にも、現れるのは青年時代の姿ということになる。社会に封建の力がつよければつよいほど自分というものの人間性の自覚は、生理の成長よりずっとおそく精神の上に辛くも開花するのが例である。徳永直の「他人の中」は、いくらかゴーリキイのあとを追った筆致であるが、山本有三の「路傍の石」とともに境遇的描写の範囲で少年の生活の苦渋を描いている。
二三年前、坪田譲治などの子供の世界を描いた作品が流行したことがあった。が、あの時代の作品でも、稚さから若さに発展しようとする人間の肉体と精神とが、今日の現実のうちに遭遇する種々様々の困難にまでふれて描き出そうとした作品はほとんどなくて、おおかたは大人の心がそこに休安を見出すよすがとして工合よく配置された稚い世界を扱った作品であったことも忘れられない。
欧州の文学の中でさえ、境遇の条件との関係では受身におかれて描かれている若い娘たち少女たちの内的生活が、日本の近代文学の中では果して少女小説からいくら歩み出して扱われているだろう。再び、細井和喜蔵の著書が念頭に浮んで来る。あのようにして挫折する夥しい若い生命の声は、どんな作品のなかに反響しているだろう。
心理分析の手法で、少女から若い娘にうつる微妙な時期の嫉妬やあてどのない愛のもだえを扱った映画は、フランスやドイツに現れていて、日本でもその模倣めいた試みがされているけれども、今までのところは情緒的な雰囲気の味が目ざされていて、そこには、社会の因習に揉まれつつ、それに抗して一個の女性として形成されてゆく精神の成長の過程を描くような厳粛な努力は払われていないのである。窪川稲子の「素足の娘」は、単に境遇の条件とのたたかいの範囲にとどまらずに人間として何かを求めて成長しようとしている少女から若い娘への推移のある時期を描いた数すくない婦人作家の作品のうちの一つである。
樋口一葉の「たけくらべ」は吉原という独特な環境にある少年少女の稚い恋を描いた近代古典として有名であるし、まぎれもなく
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