若き精神の成長を描く文学
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)轢挫《ひきくじ》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年十一月〕
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 ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」(岩波文庫・高橋健二氏訳)は、ヘッセの作品のなかでも多くの人々に愛読されているものだろうと思う。同じ岩波文庫で「青春彷徨」(ペーター・カーメンチント・関泰祐氏訳)が出ていて、ヘッセを詩人として確立させたこの作は、二十世紀初頭の文化や文学に対して二十七歳だった作者が抱いた批判や、自分としての立場がペーターの彷徨とその終結のうちに語られている。この小説で、ヘッセは自分が「大多数の人々がその思想と情熱の全精力を社会や国家や科学や芸術や教授方法に向けるのをみた。しかし何等外的な目的を持たないで、自分自身を築き上げ、時代と永遠とに対する自分達の個人的関係を浄化しようという欲求」に立つ詩人であり、生活の核心に近づくため「あらゆる好意とよろこびの核心は愛であること」を語る詩人であることを明らかにした。当時ドイツの文学のなかで「青春彷徨」が発展小説の一つの典型と云われたのは、主人公である青年ペーターの性格と人間的な精神とが、生活の流れのなかにただ漂っているのではなくて、ある探求をもって成長し前進し発展を辿ろうとしているためであろう。
「車輪の下」は「青春彷徨」につづいて一九〇八年ごろ、日本で云えば明治四十二年小山内薫が初めて「自由劇場」を創立して、日本の文学は自然主義の頂点に立っていた時分に書かれた作品である。
 ハンス・ギーベンラートという感受性のきわめてつよい、内気な、天賦の才能のかくされた少年が大人たちの俗っぽい野心や名誉心の犠牲となって、ついに自然なその子にふさわしい成長を挫かれ、あわれな最後をとげる一つの物語である。作者は、ハンスと同じ息づまる条件のなかに暮している官費神学校生徒にハイルナーを見出し、ハンスよりは強烈な闘争的なハイルナーは、脱走という周囲をこわす方法で自身を救い出し、そういうことをしないおとなしい、境遇に対して敏感ではあるが受身なハンスが、粗野な俗っぽい世界で己を滅ぼされてゆく過程を、暖く精密な心で描き出しているのである。
 その下に愛すべき青春を轢挫《ひきくじ》く世俗の車輪は、ヘッセのみるところでは、所謂《いわゆる》現実的な人々の生活に対する真の愛の欠乏である。そういう大人たちは、この人生に自分たちの欲望しか認めず、自分たちの希望の成就しか目ざさずそのために未来は人間のよろこびとなる存在であったかもしれない稚く美しく哀れな生命の幾つかが圧しつぶされ、壊滅してゆくことについては全く鈍感に生活している。「青春彷徨」で云っているように愛するという甘美で困難な仕事は、その困難がいかに深刻であるかということを、ヘッセは「車輪の下」においても語ろうとしているのだと思う。
 ヘッセは、この小説のなかに、彼の特徴である自然への憧れ、そのうちへ溶け入ってより寛くゆたかに生々とさせられる情緒を実に濃やかに描き出している。ハンスが、おそろしい入学試験を終った日、小さい庭へ出て、過度な勉強から来る頭痛や悲しさを知らなかった幼い日の思い出の兎小舎をうちこわし、水車をこわす心持は、読者の胸をもハンスの憂愁と愛着とで疼かせずにはいない。釣をする柳の生えた河の景色の溌剌とした描写。精神にとっては牢獄である修道院の周囲にさえも、自然は美しさと多様さとをくりひろげていることの悲しい感動。それらはあらゆる読者に、自分たちの幼年の日の思い出を甦らせ、憂いとよろこびの流れ合った独特な心持を目ざめさせて、ハンスの苦悩にみちた運命に共感をおこさせる。同時に、この作者が自然というものに対して抱いているロマンティックな傾倒もそこに溢れていて、ハンスのおそろしい生々しい壊滅への姿は、一種霧のようなものにつつまれて、印象にのこされるのである。
 ヘッセは、「青春彷徨」で発展小説を、「車輪の下」で教育小説をかいたと云われているけれど、この作者の天質にはロマンティックな詩人としての要素が決定的なものとして働いていると思う。「青春彷徨」の結末にしろ「車輪の下」の最後にしろ、ヘッセは、誠意をこめて辿って来た精神と肉体の葛藤の終りを、いつでも音楽で云えば弱めて消されるピアニシモの音調で結んでいる。余韻は空気のなかにのこってふるえているけれども、その余韻の快さに甘えてばかりいないで、そこにふくまれている作者の暗示にとんだ意味をとりいれて生活の力とする読者は、果して何人いるだろうか。
 決して譲歩しない人生に対する沈着な勇気と不屈な正義への感覚とが、ヘッセの場合では外的な関係なしに、個人的な関係を時代と歴史とに向って浄化しようと
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