ことをしたあげくにすることのような通念にも我知らず屈して、唯そのひとの純粋さえ失われなければ、と出されている条件が人間生活の現実にはほとんど全く成り立たないものだということを知っていないほど、著者は人生に稚く、それが娘の心だというのであろうか。
 男と女とが互に束縛する重さを愛の量だと思いあやまったりしない共同の生活をいわゆるさばけ[#「さばけ」に傍点]た同士の物わかりのよさというものとはちがった社会的な基礎の上に求めている若い男女が今日いないとは思えない。この点ではこの『娘時代』の著者を必ずしも自分たちの典型的代弁者とはしない一部の若い世代も存在しているのだと思う。道学流の見地からでなく、人間がこの社会に生きてゆく生活力、人間性そのもののもつ合理性によってさばけ[#「さばけ」に傍点]ることで目先にもたらされるゆとりの皮相さと退嬰とを大局から理解している娘も、今日の日本にいる。それもやはり一つの現実の娘時代の姿ではあるまいか。
 この著者が「自分の幸福のためにとる手段」として「安楽な生活」として描いている結婚の対手の財力に重きをおく今日の娘心を肯定しているのも面白い。「誰だって貧乏した
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