女がずっとそうであって大変結構だということとはおのずから別であろうと思われる。求める心の一つの表現として、本を読みたい心がないといわれるのでは、心のどんな必然から小説が書き出されて来るかという訝しさも生じるわけなのである。
 この『煉瓦女工』と『娘時代』とは、作者の環境として貧富のちがいが極めて著しい。だが、私たちの関心がひかれるのはそういう偶然の貧富の単純な対照ではなくて、この二人の娘さんたちが、それぞれの意味で自分の環境内に立てこもっていて、互が互の社会的な存在を感情の領域のうちにとりこんでいない点では全く似かよっていることに就てである。
 鶴見界隈の部落生活で、人々の動き、声、次々のできごと、その消え行く姿などは四六時中、若い野沢富美子の感受性を休みなく刺戟しているに違いない。生活は裏も表もいわば見とおしで、その具体性というものが自然にこの小説家の大きい力となっているのは事実である。現在までは、「本当に運のわるい自分の家」というだけの感想でそれとたたかい生き、その中から作品もかいて来ているこの若い作家が、将来、真によりひろい視野から自分の境遇をも見て、その境遇を計らず自分一人が脱
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