く歴史のあかしとして見る。青春は単に題材となるだけのものではない。

 十六歳ぐらいになっているきょうの女の子が、ひとりの人間として、どの位確立しているか、少くとも自分の力で人間として確立しようと努力しているかという事実を、きょうのおとなは、それが必要なほど十分知っていないのではなかろうか。
 母親の育った時代、いわゆる女学校教育はあったけれども、それはきまった内容だったし、人間交渉の課題として、いまあらわれている男女共学もなかった。
 姉の時代は学徒動員で、そこには青春の破壊とそれによって不具にされた若さがある。
 いま十六になったわかい人たちのなかで、少し考えるひとは、その二つの姿に、自分たちはどう生きようとしているか、という課題を対決させずにはいられない状況に生きている。そこに、深い不安がある。はやく自分の力で生きるようになりたい。こんなにもそうして生きることが正しく、自然だと思えるのに、十六歳の人生は、まだ封鎖されている。自分として経済能力もまだない。もしあるとすればそれは年少な人たちの労働力をしぼる仕くみである。
 十代のひとの発言が、社会的な意味をもつものとして登場しはじめたことは、人間のゆたかさにとってよろこばしいことだけれども、それについて、十代のひと自身ある程度辛辣な感情を経験していることを、おとなは知っているだろう。
 スタイル・ブックが、「ジュニア」の間に販路をひろめるために、若い夢をかきたてている。
 十代が、ジャーナリズムの新しい開拓地と見られているのではないかということを、わかい女性は案外批判しはじめている。
 いわゆる少女向の雑誌や、少女歌劇につながる趣味――少女趣味一般は、若いひとたち自身にわたしたちとはちがうと思われている要素を少なからずもっている。
 なぜなら、十代のひとびとがしんに求めているのは、人間として、女としてどう生きてゆくかということについての率直な検討であって、「十代の事件」ではないのだから。若い人たちの現実のゆたかさ[#「現実のゆたかさ」に傍点]、人間らしさであって、おとなが、若い人によって、描き出す夢やロマンティシズムばかりではない。このことは、先頃、ある婦人雑誌が催した、十代のひとたちの座談会に関連して学校当局とその少女、その親との間におこった事件について、同じ年ごろの若いひとたちが批判した、いくつかの短い文章に
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