若い人たちの意志
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)青銅時代《ブロンズ・エイジ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)年ごろ[#「年ごろ」に傍点]の若い方とよぶとき、
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 ゆたかに、より能力のある人生を、というこころもちから、このごろの十代の人たちはどう生きているか、そして、どう生きようと欲しているか、という問題について注目されはじめている。
 これは日本にとって、どういう角度からも決して無意義なことではない。若い女性というとき、これまでその若さは何となし結婚適齢期のぐるりで考えられていた。昔の人達が年ごろ[#「年ごろ」に傍点]の若い方とよぶとき、それは女学校卒業ごろから結婚までぐらいの間の女性たちをさした。女性には年ごろ[#「年ごろ」に傍点]という一つのよびかたがあっても、男の年ごろ[#「年ごろ」に傍点]という考え方は昔からなかった。このことは、日本の社会の習慣のなかで、女性の一生とその運命とが、妻となる、という形に決定したものとして扱われて来た証拠であった。
 十代の人たちが、社会の歴史にとって、注目すべき年代として登場して来たことは、日本の一般が、人間というものについて、いくらか複雑で立体的な理解をもちはじめたことを語っている。ほんとにどんな大人でも、しずかに自分たちが生きて来た道をかえりみれば、十二、三から十五、六、七歳ごろの月日が、どんなに感銘にみちたものであったか、考えずにはいられないだろう。大人は自分たちの十代をかえりみたとき、とかく、わたしがそのくらいの年ごろだった頃には、と、少年少女としての自分がおかれていた境遇と、それにつれて現在では物語めいて変化しているその時代の様相を想い起す場合が多いらしい。
 そして多くの場合、そういう境遇とか、世相とかにおいて、いまの少年少女、わかい人々の生きかたと、かつてあった生きかたとを比較したがる。――しかもおとなとしてのきょうの心で――
 だけれども、そういう方法は、大人の方法で、しかもふるい大人、若いものと自分たちという区別の意識からぬけられないタイプのおとな[#「おとな」に傍点]の方法だと思う。
 多くの可能のひそめられている人間誕生として、赤坊を見るこころをもっているおとな[#「おとな」に傍点]。小さい人間の成長過程として男の子供、女
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