の子供の生きかたを見まもるような表情をもっているおとな。
 そして、心からごく若い男――少年、ごく若い婦人たち――少女を、人間的自覚のあかつきの面を向けている大切な美しい時期の人たちとして理解をもっているおとなたち。そういうおとなの人間が日本の中に一人でも多く形成されてゆくことを、きょうのおとな自身がどれほど希っていることだろう。
 ある意味で、いまのおとなにあきたりない苦しさとたたかっている若い人たちの悩みの本質は、そっくりそのまま、そう狭くない範囲でおとな[#「おとな」に傍点]自身のたたかっているなやみでもあるというのが、いまの現実のありようである。人間としての悩みは、成長のそれぞれの時期にちがった形をとってあらわれる。
 けれども、そのさまざまな形を通じて、一貫した「人間の問題」として、わかい人々の生活は、年齢をこして、人間らしくあろうと欲しているすべての年代の人々に通じているのである。

 十代の若いひとが、人生にめざめそめて、朝霧がいつかはれてゆくように自分の育って来た環境を自覚しはじめたとき。人間としての自我が覚醒しはじめて、自分を育て来ていまも周囲をとりかこんでいる社会と家庭のしきたり[#「しきたり」に傍点]に、これまで思いもしなかったはげしい批判の感情がわき立つようになったとき。そういう自分におどろかない少年少女はひとりだってなかったろうと思う。十代の人たちの肉体と精神とにうまれる秘密、不安、はげしい人生への欲望が燃えるのに、その内容が自分にもまだはっきりつかめないという、あてどない寂しさとあこがれ。十代は初々しく苦しい人間のめざめである。
 ロダンの「青銅時代《ブロンズ・エイジ》」が表現しているように。
 肉体が性にめざめるとき、時期をひとしくして人間の精神に自我が覚醒し、開花して来るというヒューマニティーの過程にこそ、思えば感動をおさえがたい人間の光栄がある。美しい十代は、小さい男性、小さい婦人たちとして、性が開花に向いつつ、それが蕾であるゆえの、まだどこか中性の清洌さを湛えていて、おとなのように生物的な負担の重さ(多くの家庭は、巣のようだから)によたよたしない精神が、萌え出たばかりの新鮮な自我を核心に、長足に子供からおとなへ、家庭から社会へと、拡大した現実にふれてゆくのである。
 十一、二歳になると、何となし子供の心に生じるおとなのたよりなさと
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