不安心。やがて、年とともにおとなの生活――両親たち、学校の先生たちに向けられる鋭くてむき出しの批判。それらの批判は、若いひとたちにめざめてゆく、理性の成長の幅に応じてまだ、狭い、しかし、同時にまじりけなくて、日々の営みの大変さにおされがちなため、いつの間にか惰性で生きているおとなにとって、虚をつかれたというショックに似た感情を与える。おとなが、若い人たちと、まじめに話してくれようとしないという不満。
それは、おとながわれしらず示す人間的卑屈さである。両親の夫婦喧嘩が、子供の人生をどんなにいためつけるかということを考えないで、同じことをしばしばくりかえしている理解しがたいおとなの不条理。おとなはおとなの秘密をもっている。それにふれられそうになったとき、なまいきとか強情とかよぶ。だがそのことは、全身で若いひとが示す人間生活というものへのありかたについてのきびしい質問である場合が少くない。
十代の理性は、おとなが、日常の必要によっていつか鈍らされ、角をまるくさせられている分別と同じものではない。社会生活の上に固定しているさまざまの約束に、若いひとたちの心と体とがぶつかって、輝くような希望とともに自分について感じはじめたぼんやりしたいとわしさの間にゆれながら、いくらか不器用に生きかたの追求に出発する。
十代の条理は、人生のいつの季節よりも単純で明白である。ところが、他の半面で、十代の爆発的な情熱は、同じそのひとを、最も非条理に行動させるモメントをも持っている。
あるとき家出を思わない若いひとたちがあるだろうか。おとなの世界を憎悪し、そのように不協和な自分の存在を憎み悲しまなかった若いひとびとがあるだろうか。十代の人間悲劇は、社会関係に対して稚く、しかも全く激烈であるということに特色をもっている。
文学が青春の周辺にあって、そこからはなれない理由の深さがここにある。
青春は人類の可能性の時期であり、どんなに肉体の年齢が重なろうと、その重みでかがみこんでしまわない人間精神の若さこそ、人類の不滅の可能につながっているのであるから、この社会で人間がもっている社会関係、人間の生きかたに密着している文学が、若いひととともにあるのは自然なことである。
そして、そういう文学は、いつも、若さというものを、人間の可能性が現実とたたかってゆく過程としての人生を発見している。すすみゆ
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