も、あらわれていた。
 その座談会で一人の少女が、学校のつまらなさ、について、軽蔑をふくんで発言をしたことを、学校当局は、教育そのものを否定している生徒はおけない、と云って処分した。その処分をめぐるいきさつに、その少女の親であるひとの、すこし普通の暮しの人たちとちがう態度も作用しているようだが。そのように、一人の少女の発言をめぐっていきりたつおとなたちにかかわらず、その座談会について批評をよせている年わかいひとたちの判断は、平静であり、考えるべき点をとらえて考えている。学校がつまらないということ――旺盛な知識欲をみたすほんとの勉強が学校にはかけているということについて、こんにちの若いひとの苦痛は、共通である。それは無理もない。学校教育というものが与える最もよいことは、そのひとが一生自分で勉強をつづけてゆけるために必要な勉学というものの「方法」を身につけさせるという点になければならないのに、きょうでは先生たちさえも、まだそこに重点をおいていいのだという自信をもっていない。
 だけれども、ただの学校否定に意味ないことを、わかいひとびとの批判は、とりあげている。アナトール・フランスが諷刺したように、空壜のように「行儀よく並んでつぎこまれる」のをおそわるのではなく、学びとる自立的な態度をもとめている。同時に、十代のひとたちの大部分は、ジャーナリズムの場面に出席して語っているひとたちよりも、もっと日本のきょうの一般的な現実に即して生活しているし、自主的な未来の生活設計に腐心しているという事実をあげて、率直に自然にかかれていた。
 十代のひとびとの人生に、アルバイトがはいって来ている。それは不思議でないことになった。おとめは、夢のうちに生きず、現実に、人間の女性としての可能をためそうとしつつある。その態度にこそ、新鮮な十代のほこりと美とがある。おとな対十代のひとという古い関係で見ることはなくならなければならない。あなたも、そしてわたしたちも、ひろい人間としての関係の中に十代は自身を示していいのだと思う。
 十代のひとが醜いと感じることは、おとなの世界でも多くの場合醜いことである。それが人間としての醜さとして社会生活の判断に適用するような社会、十代のひとたちが、よりよく生きようと熱望する、その熱望が、すべての人々の熱望に通じて行為されるような社会にしてゆくこと。自分自身を偽われず
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