でいる子供も大人も顔色から言葉つきからその骨組の工合まで、西側の人々と異っているというのは何故だろう。
 巴里《パリ》の凱旋門の下では、夜も昼も無名戦士の墓辺の焔がもやしつづけられていて、そこには劇的に兵士が立って火を守っていた。
 けれども、その犠牲の様式化され、装飾化されさえしたような美の形式にかかわらず、男一人に女五人の割というフランスで、夕方華やかな装いで街の女が歩きはじめる並木道の一重裏の通りを、黒い木綿の靴下をはいた勤労の女たちが、疲労の刻まれた顔で群をなしていそいで遠い家路に向っていた。木炭瓦斯で自殺したというものの名は、新聞の上で殆どいつも女であった。これは、花の巴里というところのどういう現実を語っているのであったろうか。
 あんなにどっさりの女性が大学程度の教育をうけているイギリスで、あんなに女と愛を理解し大切にすると云われているフランスで、女一人が完全な独立生活を営めるだけの条件はなかなかかち得られないでいることは、私にやっぱり旧い世界共通な自分たち女や子供の生活のありようというものを考えさせた。
 現実の不条理からひきはなして、たとえばフランスのように小さい銀貨の
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