どう感じられましたろうか。
 例えば、弓子さんの家の経済状態が書かれているようなものであるとすれば、愛人隆氏の病室にも近よらぬということが、日常の生活における実際として果して可能でしょうか。二間か三間の家の中でそんなことをしておられるものでしょうか。
 そして又、後を追って死ぬ程弓子さんの愛情が切ならば、どうして隆氏の世話をせずに、引はなされたままで暮していることに耐えたか。私はそこに多く不自然なものを感じ、若しこのような現実があって弓子さんが死なれたのなら、それは何と愚劣なことであったろうかと残念に思います。
 烈しい愛の感情を、具体的な日常の、そのときどきの事情に応じて必要な形で活かし、あるときは愛情ふかい看護人とし、或る時は活溌な助力的な友達として、或る時はまた美しいけもののように素朴で豊富で、きつく、新鮮な女として生かしてゆくのでなかったら、生きる力としての愛のねうちはどこにあるでしょうか。
 愛は死ではない。貫く生の力です。
 弓子さんの死が、死に到るまでそのような実行力のない実際生活で導かれたとすれば、死は、受身に受身に内屈せられた感情の破局として全くマイナスの社会的意味し
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