には四百五十万人という勤労動員がされたのであった。昭和十四年に比べれば四倍以上の増加率であった。その中で学徒の動員は百九十二万七千三百七十五、女子挺身隊は四十七万二千五百七十三という数に達した。十五歳から四十歳までの婦人は、国民動員計画の中に含まれたから、女学校の生徒も専門学校の生徒も、中学や男子専門学校の生徒と同様、学校へ行かずいきなり工場へ行って働かせられるという状態になった。女学校を卒業した人も直ぐ女子挺身隊として、各職場に送られた。「女性よ、生産工場へ!」「職場へ!」「技術を高めよ!」という声は、「働く女性は誇りである」という声と共に日本全国に充ち満ちた。生産場面に女子が吸収されて行くばかりでなく、遽《にわ》かに拡がった南方の島々へ、又は満州や中国へ、さまざまの名目で、いわゆる進出する女性の数が夥しくなった。政府は女子機械工補導所を作り、女子が男子の七十%の能力を持っていることを強調し、航空機の製造はその七十%までを女の手でやれるし、発動機は五十%までを女子の手でやれる、女子整備員の活動は決して男子に劣らないものとして大いに参加を求めた。
 一方この時期に急速な企業整備が行われて、平和産業の部分は全く閉塞させられたから、それによって経済的な打撃を被った家庭は非常な数にのぼった。又経済的な柱となる男子が出征し、或は徴用工になり、収入は減って、それによって生計が不安になった家庭も非常に多かった。随《したが》って若い婦人の職業への進出ということは、それぞれの人の生活的たたかいでもあった。けれども、動員法によって動員された学徒、女子勤労挺身隊などの勤労状況は決して楽観すべきものではなかった。戦争遂行者たちは夢中で軍需生産の拡張を希望しているから、実際は全くインチキな施設と内容としか持たない工場でも、それが軍関係のものであって、徴用工と女子挺身隊とを、どっさり自分の工場に働かせているということにさえなれば、軍人の思惑がよくなって、資金の融通、資材の配給上少からず便利を得た。そのために、徴用工の採用にしろ、挺身隊の採用にしろ、工場の実力以上の人員を受取って、寮のあらゆる不備な条件、職場そのものにおける労働の条件の不備、だらけた集団生活から起る道徳的な頽廃は時が経つうちに動員された人々の精神に見遁せない悪影響を及ぼして行ったのであった。
 元来日本では、家庭生活の方法が全
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