この戦争によって全く粉砕されている。この恐しい荒廃の中から、私共が新しい明日の生活を築くためにはしっかりと現実的に自分達人民が置かれた立場を把握しなければならないのである。

 どの国でも、戦時は男子の労働力に代って、婦人の社会的勤労が極度に必要とされる。とりわけ、日本のように繊維軽工業を国家の生産の基本、経済的発展の基調として発達して来た国、農業の状態が全く封建的な過小農業であって、農家の労働方法は、家庭内の婦人の肩に極めて重く懸っているところでは、戦争によって女子の社会労働の負担は、外の国で見られない程重要である。同時に又苛酷な条件を持つようになる。国際信義を裏切った不意打から、太平洋戦争が始まって以来、先ず日本国中ではこれまで漠然と考えられていた「日本の婦人」というものが急にはっきりと「戦う日本の婦人」という角度から見られ、語られ、型に嵌められようになった。例えば婦人雑誌などで、これまでは洋装をした若い女の人が、呑気に楽しそうに樹蔭で読書などをしているような絵を表紙につけていたものが、昭和十七年頃になると「日本女性らしさ」ということが誇大に強調されて、洋装婦人の絵は和服姿の絵姿となった。そして、遊んでいてもいけないし、さりとてどう社会的に動くかも明瞭でない、中途半端な和服の日本女性の絵姿は、少し上ずったような黒い二つの眼を見開いて、立っている表紙が見られるようになった。
 既成の婦人団体は「戦う日本の女性」の精神の方向を決定し、軍事目的に添わせようとして、あらゆる機会と場面に好戦的な調子で、日本女性の勇敢さや忍耐強さなどを強調した。そして、毎日毎日、凄まじい勢いであらゆる家庭の屋根の下から引き離されて行く夫、兄、父、弟達に対する婦人たちの苦しい愛惜の情を押えつけることに熱中し始めた。
 真珠湾の不意打攻撃は皮相的に勝利のように見えたが、戦闘が日一日と進むにつれて、現実は日本の近代国家としての弱体を現わし始めた。戦争遂行者たちの軍需生産に対する焦慮は極端に昂まった。昭和十四年までは労務動員計画と呼ばれていた労働力に対する統制が、十七年からは、国民動員計画と範囲を拡めた。徴用がどしどし行われるようになって、男子の就業禁止の職域範囲が拡がった。企業整備によって自分の店や勤め先を失った男達は、みんな徴用されるということになった。昭和十九年からは学徒動員が行われ、この年
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