れは民法における女子の不平等の問題が、どうして女子の犠牲の多かったこの戦時中に改善され得なかったかという問題を、裏から説明している。忘れるにかたい日本の婦人全般の戦時中の犠牲は、その時こそ、男に優る女の力として、国を背負って起つ女子として、激励され、鼓舞され、全面的に動員された。けれども、動員した権力者は戦争が無限に続くものでないことを十分知っていた。戦争が終った後、職業戦線におこるべき複雑な問題、経済問題、食糧事情等が、どんなに大問題となって、権力者たちの真に人民の政治家としての能力を試すものであるかということは、おぼろげながらも知っていた。それ故、民法における女子の無能力を改正してしまったらば、今日臆面もなく失業させた女子に、家庭に帰れと命じているその口実の最も薄弱な口実のよりどころさえも失われてしまったであろう。この事実を私共は単なる一つの辛辣な観察としてではなく、真面目に深く理解しなければならないのである。
一八九九年(明治三十二年)福沢諭吉が『新女大学』という本を著わした。貝原益軒の「女大学」が封建社会において婦人を家庭奴隷とするために、女奴隷のためのモラルとして書かれたものであることは前に触れた。福沢諭吉は「学問のすゝめ」を見てもわかる通り、明治開化期における最も活動的な啓蒙家の一人であった。彼は明治になっても華族、士族、平民という身分制が残っていることを不満として、常に自分の著者に東京平民福沢諭吉と署名したくらい気概ある学者であった。この福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んだのは、彼の二十代まだ明治以前のことであった。人間らしくない女性に対する態度に憤然として、彼は、長年に亙って極めて詳細な「女大学」反駁論を準備した。そして明治三十二年つまり日本に女学校令というものが出来た年になって、社会一般が婦人問題について漸く受容れる気風が出来たと認めて、始めて「新女大学」を発表した。
「新女大学」の中で、今日もなお注目されるべきことは、著者が、婦人を男子と等しい社会的成員として見てそのために婦人は法律上の知識、経済上の能力、科学的な物の見方というものを身に付けなければならないということを熱心に説いていることである。明治二十九年に制定された民法の女子に関する差別条項を恐らく福沢諭吉は深い感慨を以て見たことであろう。婦人は、法律に関する知識を持たなければ不幸であるとい
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