をして、政治的には支配者であった武士の経済を本質的に大坂の商人が掌握しはじめたことで増大して行った。
 農民というものは、この長い歴史の間に殆んど変化のない程原始的な耕具と、最大限な肉体的労働とで働き続けて来ていた。徳川の標語は「殺すな、生かすな」という一貫した主張をもっており、その主意によって統治を受けた。やっと生活出来る程度の収入だけを残して、あとは皆地頭、領主に取られて来た。農民の女性の生活というものは、全く物を言う家畜という有様であった。しかしこの時代の彼女達の生活が文化の上に残した各地方の労働歌――紡ぎ唄、田植唄、粉挽の時に歌う唄、茶つみ唄、年に一度の盆踊りに歌う唄などは、素朴な言葉の間に脈々とした訴えと憧れとをふくめている。
 万葉集には、名もない防人の歌、防人の妻や母、遊行婦女の歌なども、有名な乞食の歌などと共に集録されて今日に伝えられている。けれども、藤原氏以後、上層の支配者の文化は、すっかり一般人民の内面生活から遊離して、文学的な集というようなものには、庶民の婦人の生活の苦しさやひそかな歓喜の思いを反映する歌も物語も残していない。そのことは、支配者の文化がどんなに崩れやすい社会的基盤に立っていたかということを、その反面に証拠だてているのである。
 商人の擡頭につれて、商人の婦女達の生活程度というものは、物質的に大変化して来た。西鶴の短篇小説の中には、大坂や江戸の大商人の妻や娘が、どんなに贅を極めた服装をし、帯に珊瑚をつけ、珍らしい舶来の呉絽服綸の丸帯をつくり、高価な頭飾りをつくったかということが、こまごまと書かれている。金銭出納細目帳のようにまで書かれている。
 徳川の政府はたびたび贅沢禁止の命令を発したが、命令は実行されなかった。それは当然であったと思う。社会的に最も身分の低いものとされ、斬り捨て御免の立場に置かれ、しかも経済の中枢では権力者の咽喉元を握っていた商人達は、自分の意思、自分の権力を、ほかのどこに示すことが出来たろう。結局物質的な実力を誇るしかなかったし、その一つの示威運動として妻や娘を飾り立てずにはおられなかったろうし、妻達もいわゆる大名方の夫人達に対抗して、庶民であるが故に大袈裟な物見遊山の行列もつくれるし、芝居見物も出来るし、贔屓《ひいき》役者と遊ぶことも出来るし、贅を尽した身装を競争することも出来るという特権を味ったのであった
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