。
こういう物質的な女性生活の富貴は、しかし立入って見れば彼女達の曇りない幸福を証明するものではなかった。この時代に日本の一般社会には女性に対する支那伝来の厳しい女訓が流布して、貝原益軒の女大学などが出た時期であった。どんなに美事に着飾ろうとも、女は三界に家なきものとされた。娘の時は父の家。嫁しては夫の家。老いては子の家。それらの家に属する女として存在するばかりで、彼女自身の家というものは認められなかった。しかも、その彼女たちのものならぬ「家」の経営のために、三界に家なき女の一生は、益軒が女大学の中でいかめしく規定しているような辛い条件で過されたのであった。
益軒の女大学の主張しているところは、誇張でなく奴隷としての女のモラルである。女は男よりも遅く寝て、男よりも早く起きなければならない。益軒は主張している。結婚して三年経って子供を持たない女は離婚してもよいと。一方においてこの益軒は『養生訓』という有名な本を書いた。この本の中で益軒は智慧をつくして、男が長生きをする養生の方法を研究しているのである。熱い風呂に入るなということから、性生活にわたるまでを丁寧に教えている。そうして見れば、当時の標準で、いくらかは医学の知識も学んでいたのだろう。それにもかかわらず、女に向うと益軒は、女が男よりも弱い体を持っているということさえも無視している。子供を持つためには、女の生理的ないろいろの条件が、十分守られ保護されなければならないという事実さえも無視している。そして睡眠不足、粗食が守るべき女の規則として提出されている。今日、少し常識あるものは不姙が女だけの責任でないことを理解している。益軒の、性生活に対する注意事項を見ればその間の消息に通じない男でもなかったらしい。しかし、封建的な家というものに女を隷属させて、家を継承する男の子を生む者としてだけ女を計算した封建家族制度の立場は、男のそういう目的に反する全責任を、女に投げかけているのである。
女大学が繰返えし読まれたのは、中流の武家階級であったろう。貴族と町人とはそれぞれの社会的な理由から、現実に益軒のモラルは蹴飛ばして生きていただろうと思う。
徳川の末、日本文学は興味ある変化を示した。その一つに、近松門左衛門の文学がある。彼の作品は、浄瑠璃として作られた。日本文学史の中で、近松の作品が持っている最も本質的な価値は、この封
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