互いの等しい価値で運転するならば、あとの五時間は誰かのために働いていることになる。私達は十時間働かなければ賃金をもらって食えませんから、自分のために働いているように思いますけれども、それは実は五時間でできるのであって、あとはすべての生産品は、生産手段をもっている投資家、株主、会社の社長などの利益のために商品として売られて、それは私共の働く賃金のなかにはくり込まれておりません。生きるために働く時間にはくり込まれていないわけです。そこで五時間で私達が暮せるならば、五時間だけの月給をもらって五時間で働くのをやめて、そしてあとはいろいろな文化的な、映画を見るなり音楽を聴くなり、何といっても日本は科学が貧弱なのだからうんと科学の勉強をするなりすればよい。けれどもそれはやる間がございません。やはり十時間働かなければならない。それはなぜか。そうすると一時間の賃金と申しますものは決して一時間に生産できるものの値打を現わしておりません。それは資本家が働く人を買うことのできるその国の一番低い条件、標準を示すにすぎないのです。ですから十時間働かなければ私共は自分ひとり生きられないし、家族も生きられない。けれども実際に受取っているものは時間にすれば五時間で、あとの五時間でできる生産物は、五時間分の月給のなかから見れば恐らく百倍も千倍もの価値のあるものをつくっているわけです。ですからブルジョア民主主義という段階においての社会では、みな選挙権をもっておりますし、婦人も公民権をもっておりますし、民法と刑法において日本のような婦人の無能力を現わされておりません。しかしやはり生活の根本にあるそういう矛盾のために、アメリカなどではやはり失業の問題が非常に多うございます。失業者はもう非常に多い数になっております。日本では失業を数える時には男子の失業だけ数えるのでありまして、つい先だって五百八十三万といっておりました。そして二、三日前には数ヵ月のうちにそれがうんとふえるだろうと書いてありました。ところがあのなかに婦人の失業者は入れてない。なぜかといえば、政府は婦人の失業者は家庭に帰るからといっているでしょう。だけれども、家庭というのはどこにあるのか、誰がつくった家庭がどこにあるのか。もし今日私達に家庭というものがあるならば、私達が自分達の努力できずいてもってきた家庭があるだけであって、私共は一文の金もなく、今日のような恐ろしい物価のなかで、家庭に帰るといっても、一つの戸棚をあければ食べるものがぞろぞろ出てくる魔法のようなものをもっていらっしゃるなら別ですが、そういうものは世の中にないと思います。ところが半封建的な日本では婦人は表面では勘定しない。もちろん労働力としては勘定する。明治の紡績とか戦争の間にも女はどんどん働かされましたけれども、失業の時には勘定しておりません。けれどもブルジョア民主主義、つまり資本主義民主国では、やはり女の失業も失業者の数のなかに入れております。婦人が失業したら母性の痛められ方が男性よりひどい。男は土方をしても労働できるけれども、女の人は売笑婦になる。そういう道徳的頽廃を起すから女の失業者の問題を解決しなければならないけれども、社会的解決は資本主義的民主主義ではできません。だからある点ではこれらの民主主義社会は、すべてのものの幸福のためにつくられた社会であるといわれているけれども、その内部では働かすものと働かされるもの、婦人と男子の間には、幸福と不幸の開きが決定的にあるわけです。
 今日の地球の面では、面白いことにはそのような矛盾を何とかして解決しなければならないという努力がされておりますが、その国の天然資源の豊富さ、土地の大きさ、人口の多さ、今までもっていたその国の社会の歴史のいろいろな必然的な動きから、たとえばソヴェト・ロシヤのようなところには社会主義的な民主主義が発達しているわけです。社会主義の民主国というのはどういうことかといいますと、今の一番根本の経済問題を解決しております。みなが五時間働けばすむだけの生産能力があるならば、五時間だけ働いて五時間で暮せる賃金をはらって、あとの五時間、或は二十四時間のうちの残りの十九時間というものは、みなの社会活動のために、本の勉強のために、医学の勉強のために、工場で働いているものも技術家になることができるように、小説家になることができるように、或は女の人ならばいつか自分が希望しているような音楽家になることができるように、人間らしくすべての希望を貫いて社会の活動と生産の働きと結びつけてやってゆこうという社会もできているわけです。
 そこでその三つの社会をひとりの女の人の上にあてはめてみると面白いのです。たとえば半分封建的な今の日本のような状態ですと、家庭のいろいろな負担というものは女がみな自分の体で解決している。薪を集めることから焚くことから、子供の世話をすることでも何でも、みな女の人が自分の体で解決しなければいけません。ところがアメリカのような国になると、電気とかいろいろな社会設備が発達しているから、家事的な労働の大部分は公共的な簡便さで解決される。つまり、たった二ドル位で電話がひけるとか、ガスや電気が大へん安い。だから電気で洗濯して電気でアイロンをさっさとかけて電気で料理をして、かたわらでラジオを聴いて勉強していられるというように、同じ一時間でも立体的な一時間になってくる。同じ一時間でも私共は薪を割ったり何かして一時間たってしまうでしょう。この問題を身につけたところでは、同じ一時間でもその内容を豊富にして一時間を働くことができる。ところが社会主義の民主国になりますと、その一時間というものの社会的の意味がかわって参ります。つまり資本主義的民主主義の状態の時には、そういう目のさきの便利はすべての女の人がもつことができますけれども、しかし根本的に先程申しましたように働かさすものと働くものがございますから、いつ馘《くび》になるかわからない。競争者はうんとある。自分よりもちょっと腕のよいタイピストがあれば自分は馘になります。いつも根本的な生活の不安に脅かされているわけです。ところが社会主義的な民主国になりますと、銘々の健康に差別があるように銘々の能力には差別があります。それが差別がありながら、銘々が全力を尽して安いよいものをつくってゆく。人を使うのにも安くてよい人を使おうという競争がない。なぜないかといえば、人間は生きる以上は働く権利があるのですから、働く権利が根本的に守られていれば、自分の能力を良心的に十分働かせてゆけば、その社会から働いているものという意味で、養老保険も失業保険も健康に対する保険も、母性保護のいろいろな設備、つまり村の産院、工場のなかの無料産院のような母性保護も十分に行われるわけです。ですから自分達の力でつくった自分達の本当の民主主義的な社会のなかにあっては、その人が生きているということに当然ついてくるたくさんの権利が具体的に現われてくる形でそこに解決せられているわけです。今日、日本で民主主義ということをいい、民主化ということを非常に大事に考え、あなた方にしろ、理窟はともかく民主的なものになることを心から希望していらっしゃいます。その希望がなぜそのように私共にとって大事な希望であるかと申しますれば、それは封建的な重いものを取去るという喜びがある。さらにその上に民主主義というものは人間の能力を無辺際に約束しているものです。私共は賢くなり、実行力ができ、組織をもつことによって、それは必ず私共に実現され得るという可能性を見せているのが民主主義的な国家のあらゆる段階なのです。だから、今日日本が民主的になろうとすることは、まず第一段に発展する可能性の一番低い段階に足をかけているということなのです。
 時間がなくていろいろなお話ができないのですけれども、民主的なものの一番根本は人間の生きている権利、そしてそれは私共は社会の生産に関与して生きているというその権利が主体なのです。そのほかわれわれが考えなければならないことは、今の憲法草案には天皇は議会を解散させることができるとなっています。そうすると私共がどんなに良心的によい代議士を選んでも、たったひとりの人が議会を解散するといって、それを書いた紙をもって捧げて読めば解散になってしまう。それほど簡単です。私達がこれほど長い間苦痛を忍びたくさん血を流し犠牲を払ってきた。あなた方の御親戚のなかで戦争でひとりも死ななかったお家はないと思います。焼けなかったという方はこのなかに何人いらっしゃいますか。私達が今日まで払った犠牲はずいぶん大きい。そこから私達が真面目に社会をよくしようとしている時に、ひょッと一枚の紙を読めば議会を解散させる権力のあるものがあるということ、しかも憲法草案はすべての人は法律の下において身分、門地その他によらず平等であると申しておりましょう。そうすれば人間のなかにそのような権力をもって、たった一つの言葉で戦争をし何十万の人を殺し何千万の涙を流し、そして何十万の家を焼いた。そういう人に戦争をさせる権利があるということが間違ったということは、あの人は、という規定のなかでいっているわけです。私達の心のなかには昔からいろいろの習慣がたくさんございますから、理窟では正しいと思っても、気持がまだ、感情がまだということがたくさんございます。それは人の気持の自然ですから、理窟で説き伏せるとか気持がそぐわないのにそれは道理だからといって押付けられたら間違っても仕方がないけれども、しかしわれわれの生活はここで間違っても結構だというように過去においても今においても楽だったとは思われない。少くとも私は絶対にそういうように思いません。日本の婦人は日本の歴史のなかで今日幸福になっても遅すぎる位のたくさんの犠牲を払っております。またたくさんの辛抱をしてきております。だから自分の気に入る、気に入らないということは、お友達と議論なさる時に「そんなに感情的になったって駄目よ」とおっしゃるでしょう。それからあなた方に申すのは失礼かも知れないけれども、たとえば恋愛でだまされた時何でだまされたか。あなた方は理窟でだまされることはないでしょう。それは感情でだまされるのでしょう。何だか好きなような、何だか魅力があるような……それはあなた方をだまそうと思えば魅力をつけさせることはできます。男は女よりも社会性がもっと強うございますから、ものを知らない若い娘さんの気に入るようなことは考えればいくらでもできます。だから、それは人にだまされたのではなくて自分の気持でだまされたのです。女の人は用心深いから、自分達の幸福のためにちゃんとした恋愛をしてゆきたいということはみな考えておりますから、「だまされてもいいわ」という人はひとりもおりません。だまされる可能性が百パーセントお化粧の上に見えている人でも私はだまされるとは思っておりません。こういうようなものでありますのに、いろいろな社会の建設、進歩のためには自分の好き嫌いの感情でわれわれは今だまされている。もしだまされていないならあんな政党の立候補者の情勢はどうでしょうか。あんなラジオ放送は耳障りで聴いていられない。聴いている人があるから、私共のなかに遅れたものがあるから、あんな恥かし気のないことを申します。あれはある意味では私達がいわせているのです。自分達は気持の上でどうだ、こうだと筋の通らぬことを考えることによってああいうものを存在させている。だから今度の選挙も、結果によってはまた議会を解散させるかも知れないし、議員の資格の再審査をするというのも、まだ私共の十分準備されていないすきに乗じて、たくさんの反動的な、つまりわれわれをまた不仕合せなものにしてしまう力がいろいろの形で政党の力をもってバックしている。それを世界が見ているからです。だから私共はよく分別のある人間にならなければいけないと思います。いろいろな理窟はわからないでも、自分の生活というものを真面目に考えて、本当に人間が幸福になるためにはどうでなければならないか、そのこと
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