ばみなが食べるようにして暮したいわ」とおっしゃいます。それは何でしょうか。それは女の方は辛抱強いということなのです。旦那さんより奥さんの方が遠慮して三歩でも半歩でも後ろの方に引込んで歩くもの、そのような気分が往来を並んで歩いていても何かあなたのなかにあるのではないでしょうか。そういう身分の差別が夫と妻の間にあるばかりでなく、お嫁さんと姑さんの間にも、やはり日本の半ば進歩し半ば封建的であるという関係がよく現われていると思います。皆さんどういう御経験があるか知らないけれども、お嫁さんと姑の関係は、お互い同士悪い人達でなくても非常にこじれるのです。それはなぜかと申しますと、女の方は家庭が仕事でございますので広い社会的な生活をいたしませんから、お婆さんは何十年となく漬物を漬けているから、菜葉はこれ位の塩をつけたらまず食べられるということをよく知っておりますが、若い人はもう少し科学的です。だから気候による発酵度とかいろいろなことを考える。女子大学などには家事のいろいろの表がございます。そういうものがあっていろいろ考えていらっしゃるから、ある場合には大へん新しい正しい方法をなさるし、年とった方から見れば「そんな面倒臭いことをいわないでも手加減ですよ」と、おっしゃるような場合が非常にあるのです。そういうことから、「どうも今時の勉強した若い人は理窟ばかりいって、つくったものを見れば何にも別によくできていない」といわれるし、また若い人は「同じやるなら科学的にやってみたいわ、失敗してもいいから試みてみたいわ」という気持がある。そういうところから意見の相違がございます場合に、そこに身分ということから、お嫁さんは姑に従うものなりということがあるのです。それで昔から日本には女の人は親に従い夫に従い老いては子に従うという言葉がありまして、夫に従うとともにお姑に従うという習慣がありますから、家庭のなかで伸び伸びしてみなが相談して明るくやってゆくという気分が阻害されます。つまり人間らしいものが失われて参ります関係が封建的なもののなかには非常に多いのです。皆さんは菊池さんが「忠直卿行状記」というのを昔書かれたのをお読みかも知れませんけれども、封建時代の殿様は絶対に人間扱いではございません。何でも御無理、御尤もなのです。だから昔の殿様の家の仕来りがあるでしょう。こういう風にしてはいけない、こういう風でなくてはならない、こうであるべき筈のものという仕来りがたくさんございます。ところがひとり忠直卿という気象の少し激しい本当のことを知りたい人間が、可哀想なことに家来だったらよかったのに封建の殿様に生れてしまった。周りの人間はその人の気質、人間らしい要求を理解することができないから今までの殿様扱いにする。たとえば将棋をするといつも殿様が勝てるようにする。そこで俺が勝つばかりでは詰らない、少しは負かしてみろというと、今度は機械的に負ける。つまり人間らしいむき出しの交渉がない。忠直卿は激しくて何でも人間の本当のものにふれてみたいのですから、今度は向うに理窟があるだろうというので怒ってみる。そしてその時は人間らしく反撥してほしい。いや違います、そうではありません、といってもらいたい。ところが、やはり殿様ですから、恐れ入ります、おっしゃる通りです、というだけです。おっしゃる通りではないじゃないか、こうじゃないかといっても、成るほどそれはおっしゃる通りです。それで忠直卿は終いにむしゃくしゃになってしまった。当時の封建的な時代には殿様を廃業してそこらの人間になればもっともっと人間らしい生活ができるということがわからない。そこで殿様は煩悶して家来を手打ちにしたりして乱暴するものですから幽閉されて、子供に殿様の位を譲って隠居させられてしまう。ところが隠居させられたら忠直卿の性格は一変して非常に寛大で愉快に笑う男になったので人はびっくりした。殿様はあんなに虫が強かったのにどうしたのかというわけで、殿様にあなたはどうしてこんなにおかわりになりましたかと聞いたら、「とにかく俺はやっとこれで人間になれたよ」というのが菊池さんの小説なのですが、この封建的な関係は人間を人間らしくなくするものなのです。それを私共はよく考えないといけない。自分達の生活をよくするために自分達の心のなかでいかに親切に考えてもその親切が届きません。人間の関係はこの社会にあるわけなのです。たとえばあなた達は慈善の深い方達だろうと思うのです。だけれども、お勤めや何かからお帰りになる途中で、いきなり人が出てきてハンド・バッグを掻っ払おうとした時には、あなた方が慈善深い方でもお渡しになることはないと思います。そのなかにはやってよいものが入っているのではなくて、やって悪いものがそこに入っているのです。だから人の心というのは抽象的には申せません。お互いによいとか悪いとか動かないものがあるのではなくて、関係によってそれが起ってくるのです。お互いに憎まざるを得ない関係になれば、どんなによい人とわかっていても憎まざるを得ない。だから人間の関係というのは、遅れている社会関係を私達がはっきり取除けてしまいませんと、いかに心のなかで進歩的でありましょうと、心のなかにいかに希望をもっていてもそれは実現できない。またあなた方がいかに大言壮語なさり、私達があぶくをどんなに出してしゃべっても、お互いに結婚している人間ならば無能力であるということはいざというとたんになれば同じなのです。それをかえるために私達が集まってこういうようにお互いに話をいたしますけれども、人間性というものは徹底的な善人もありませんし、徹底的な悪人もないのです。もし徹底的な善人と徹底的な悪人しかないならば、この人類は一つの小説も書きません。なぜならばそれはよいことも悪いこともはっきりわかっているのですから。いろいろな関係で一生がかわり、無限の喜びと無限の悲しみが隣り合せにあるから、私達が自分の人生を真直ぐ見立てて参ります時に、この人と人との関係、つまり社会の関係において、自分がどのように生きているかということを理解しなければならないと思います。自分ひとりで生きることは絶対にできません。それはあなた方がどんなに美しい心をもっていらっしゃっても、電車の屋根から二尺ほど足を出して乗っていらっしゃることはできない。あの虱が落ちているかも知れない、発疹チブスがうつるかも知れない、あの汚い箱の中に乗って同じ軌道でこなければここへいらっしゃれない。社会というものはそういうものであります。だから電車を清潔にすること、発疹チブスをなくすること、それは社会的な問題として私達みなが関係のあることになって参ります。社会的生活が一人一人の生活に影響がないならば、私達が発疹チブスでないならば、東京中に発疹チブスが起っても平気かといえばそうではないでしょう。そこにお互いの生活は切っても切れない関係にあるということ、関係によってよい人もちっともよくない人になってしまうということ、だから関係はよく正さなければならないということは、私共の民主化ということの一番根本にあるところの問題なのです。人間の精神、人間の心、生き方の問題です。
そのようにして日本は民法にしても刑法にしても、いろいろの身分の関係にしてもそうですが、アメリカやイギリス、フランスにしろ、民主主義的な経験からすれば日本よりも進んでおります。そこでは民主主義はどんな風に行われているかと申しますと、日本では半封建的ないろいろな身分とか憲法上、民法、刑法上のいろいろ遅れた分子が混っているので、今日そこから民主主義的になろうとしておりますし、アメリカは御承知の通り国を始めます時から、イギリスやフランスの古い国のいろいろな宗教的の重荷とか税の問題とか貿易の問題、生産の問題ということで、自分達がそこでは窮屈で息詰ってしまってたまらないような人達が、勇気をふるって船に乗って、海を渡ってアメリカの大陸に参りまして、そこで初めて自分達が耕し自分達が働きつくり、自分達がそれを売り捌く。そして自分達が自分達の政治の決定権を最後までもってゆきたいという人達の社会です。ですから、アメリカにおける民主主義はアメリカができる初めから発足いたしました。だからそういう意味においてアメリカは日本よりも民主主義の経験の深い先へ進んだ国ですけれども、しかし、それならば社会の関係はどの程度まで本当にみなの人が幸福に暮らせるように進歩しているかと申しますと、御承知の通りアメリカのような国、イギリスのような国は、資本家、つまり生産するための手段を自分達がもって、人を雇って時間で働かせて、つくったものは自分達が売って、金は自分がとって、そのなかから働いている人の賃金を払ってその人達を生かしておいてまた翌日働かせるという関係をもった社会機構が根本をなしております。つまり、それは経済の方の言葉で申しますならば、資本主義的な民主主義という状態なのでございます。ですからよくよく突き詰めて見ますれば、人は自分が生きるために働き、自分が成長するために学び、自分達の社会を一歩でも前進させるために自分達がよい政治を行ってゆくのが徹頭徹尾民主主義的な社会と申しますが、いわゆるブルジョア民主主義といわれる歴史の段階では、やはりそこには金持というものがございます。金持というのが漫画にあるように袋に金を詰めて金庫に溜めて、金鎖の太いのをお腹の上にたらしているような罪のないものならば、漫画にしておけばすむのですけれども、本当の資本家というのはそれはそれは抜け目がない。私共がわずかのお金で魔法みたいにして生きている。私達の生き方というのは本当に魔法です。これっぽちのお金しかないのに物価は高い。みな不思議なからくりで非常に猛烈な火の車でどうやらやっているのです。そんなような状態ですから、ましてお金をもっている人達の頭のよさ、それから社会に力をもっていることは猛烈なものです。ですから皆さんのお召しになっているようなもの、食べ物をつくるようなところはすべて空手ではできません。禅問答では片手の音を聞けといいますが、片手では音は出ません。それと同じようにみな機械がなければなりません、工場がなければなりません。彼らはそういうものに投資しております。そこに機械をおき道具を設備して建物をもち土地をもって、そして人を雇って賃金を払うというように、全部の生産の手段は自分達でもっております。すべてを自分達だけでもっているごく少数の非常に富んだ人達がいるわけです。そして日本中の何千万人の人達が一日のうちに何時間かをその人達のために働いて、自分達の生活費をそれから得て暮しているわけですけれども、面白いことにはこの生産の手段というものは刻々に進歩いたします。何しろ原子爆弾さえできた世の中です。天然色の映画さえできております。ですからものを能率的につくるという機械の発展は十九世紀以来驚くべきものなのです。第二次ヨーロッパ大戦ではたくさんの発明がありましたからわかりませんけれども、少くとも第一次ヨーロッパ大戦の前までは、もし地球上の人が一日に五時間ずつみなで働けば、その当時よりもはるかに豊かなものの多い健康な楽しい生活ができるというところまで生産の技術と生産の能率が高まっておりました。そういたしますと、皆さんお勤めになっていらっしゃるかどうか知りませんが、とにかく大ていの人は現在労働時間七時間、八時間ということを要求しております。大ていの婦人の労働時間は十時間、十一時間というのは今の労働法で平気で通用しております。かりにもし五時間で私共の着るもの、住む家のためのもの、電気その他すべてが生産できますならば、あとの五時間は誰のために働いてきているか。これが面白い問題なのです。私共は十一時間働いてかすかすの月給をとってそれで物価が三倍でやりきれないでいる。けれども本当に考えてみますと、実際に私達のいるものは五時間ですから、どこかの織物工場で五時間働いて織物をつくるなり、どこかのゴム工場で五時間働いてわれわれのはく靴や雨合羽をつくって、それらのものがお
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