幸福の建設
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)馘《くび》

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(例)[#地付き]〔一九四六年四月〕
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 今日のこの場所は割合にせもうございますけれども、この前の第一回の時においで下さいました方は、よくくらべればおわかりになるでしょうが、この場所は何かクラブの集まりの場所には気持がよいと思います。今に皆さんもっと大ぜいおいでになるとちょっと場所がせもうございますけれども、今日のようだとあまり話す人とお聴きになる方との距離がない、いわば同じ平べったいところで話すのがクラブの気持なのです。今日は月曜日ですし、お仕事のある方はいらっしゃりにくかったわけですけれども、いま櫛田さんがおっしゃいましたように、わざわざ遠いところまで出ていらっしゃって、いろいろなお話をお聴きになりましたり、自分達でお話になることもよろしゅうございますけれども、そのほかにお勤めになっているところやお住いになっているところで、お気持の合った方がお集まりになって、むずかしい問題もむずかしくない問題も、日常的な問題も、お魚をどうするかということから、お米の配給が遅れて困るがどうするかという話から始めて、いろいろな今の食糧問題の解決を試みている団体がございますから、それらの団体と結びついてそういうものの指導とか研究とかをあなた方もなさいまして、団体が実際的にお動きになってゆくようになさいませんと、ただ珍らしい人や何かを呼んできて話を聴いているだけでは、あなた方の御活動が昂まって参りませんから、そういうようにやってゆきたいと思います。
 きょう私のお話する題は「幸福の建設」ということなのですけれども、先程お話になった新居さんは昔からフェミニストなのです。いろいろ悪い時代にははっきりしたお話が申上げられませんから、ナンセンスのようなことをいっていらっしゃいましたけれども、今日などのお話は新居さんはお気持がよかったろうと思います。お年はあまり若くないけれども、お心のなかから若い女の人達に将来の希望をもってお話になったのは愉快だったろうと思います。あのお話のなかに、人間は雷さまみたいなものも自分達の幸福のために電車や電気アイロンにしてきたというお話がございましたが、そういう天然の力でさえも自分達は自分の幸福のために使うのですから、人間がこれまで生きて参りました歴史などは、もちろん私共の幸福のために使えるものでありますし、またいわば歴史そのものが人間がどういうように幸福に生きようかと努力して参りましたその足跡なのです。今日、民主主義とかいろいろなことが申されておりますけれども、私共は何しろお互い様にこの五ヵ月ほど前には、見ざる、言わざる、聞かざるででくの坊になって暮していたのです。ですから急に何でもいってよいということにもなり、また同時に自分達の責任をもって行動しろというようなことをいわれます。差当ってこの一票というものを私共はどういう風に使うかという問題さえ起ってきておりますが、急に寝ているところを起されたようなものでございますから、考えていることはもちろんあるのです、わかっている筈のことはたくさんございます。だけれども何だかそこが痺れたみたいで、うまく急に活動できにくいような気分があるわけです。だから婦人民主クラブのようなところでは、だんだん長い間にゆっくりとみなが成長して参りますために、しっかりした足どりで自分達の生活を建設できるために、みながより集まってやってゆこうとするところですから、性急に何をどうしようという必要もないでしょうけれども、しかしたとえば民主主義と申しましてもどうもよくわからない、封建的と申しましてもよくわからないということもあると思います。それで私は今日はごく簡単ですけれども、三つの歴史、私共の生活のなかにある三つの日本の段階というようなものを簡単に申上げてみたいと思います。
 まず日本は大へんに封建的な社会であったというようにいわれております。新聞でも何でもたくさんいわれておりますし、あなた方御自身も「それは封建的だわ」というようにおっしゃる。その封建的と申しますのは、ではどういう社会が封建的なのであるか、それを考えてみますと、封建的な社会と申しますのはいつも殿様と家来というものがあったわけです。それから土地と農民との関係では、大きな地主が土地をもっていて、そこで働く農民はみなその土地を借りて小作して、そして領主や地主に納めるものは現物であったのです。つまりお米とか麦とか、いろいろの野菜とか、鶏とか卵とか、或はお餅でもよいし人蔘でもよいのですが、そういう現物をすべて納めていた。そういう関係をもっているのが封建的な土地と農民の関係でございます。それから社会の身分で申しますと、領主というものが絶対の権力をもっていた。日本では殿様がうんと権力をもっていた。その次にはその土地における地頭とか名主とかいうものが権力をもっております。お百姓さん達はそれに絶対に服従していたのです。そして女の人の封建時代の立場と申しますものはどういうものかといえば、それは全く男の人の言うなりであった。いうなりと申します以上に、男の人の便宜のための生物であったのです。だから結婚などと申しましても、何も女の幸福ということが眼目ではございませんで、昔からたくさんあるいろいろなお話をお読みになってもわかる通りに、戦国時代の女の人と申しますのは、父や兄という人達が戦略上自分が一番喧嘩しそうな敵へ人質として自分の妹や娘をくれるのであります。そして一時講和条約の人質にしたわけです。そういうようにして結婚させられました女の人がどんな生涯を送ったかと申しますれば、幸にしてそこで無事に子供をもって一生終ればよかったけれども、なかには自分の実家の兄弟と夫の家族とがまた再び戦さを起した時には、その女の人達は自分の家族の血統のものだから、生んだ子を捨てて実家の方に引取られる。或はまたそれに満足しなかった女の人は、自分の親兄弟の兵に攻め立てられて城のなかで自害して死んだという例がたくさんございましたし、また人間らしい気持で私共ひどく感動させられる話もなかにはある。それはやはり戦国時代の話で、私共その名は忘れたのですけれども、ある大名の娘が大へん美しい人で、やはり人質のように結婚させられて娘が三人ございました。ところが自分の親達と夫とが戦さを始めて、いよいよ夫の城に火をかけられることになった。そして明晩城に火をかけるからお前達は逃げてこいという密使がきたわけですが、その時に女の人は何と申しましたかといえば、私はもう女として生きることはこりこりだ、自分は今までに二度結婚させられている。初めはやはり人質としてよそへ片づけられたが、その人からもぎ離されてこの人と結婚した。自分はその人を愛しているし、その人も自分を愛している。それに子供も三人いる。自分がもしここで兄や父親の手許に引取られたならば、自分は不幸にして容貌がうるわしいから、三度も四度も都合のよい贈物のようにしていつもいつも敵にまわる人の手にばかり渡されるだろうし、自分は自分の愛情のためにもそういう目にあうことは結構だ。また自分の娘達の生涯というものも考えてみれば、あまり可哀想だ。娘達も美しい可愛い娘達だから、大きくなれば自分と同じような人生を送るだろう。自分はそれを防いでやる力はない。だから自分と娘達は自分達の愛情をもっているところで死にます、といって何度も何度も迎えが参りましてもそれを断って、とうとうその三人の娘を刺殺し自分も自害したという話があります。これは名前を申上げたら皆さんよくおわかりになるだろうと思いますけれども、私はずいぶん古く読んだので今思い出せないのですが、そういう女の人の不幸の生活があります。そういう人達はたくさんの召使の女の人にかしずかれて手取り足取りされて、自分の帯を結ぶことも髪をゆう必要もない生活をいたしましたけれども、人間らしさはそのように無視されてきたわけです。
 ところが明治の日本になりましてから、いろいろの点で生活がかわって参りました。たとえば法律というものができました。昔の封建時代は殿様が絶対的の権力をもっておりましたから、自分の臣下に対して生殺与奪の権があった。生かそうと殺そうと殿様のお気儘という状態なのです。ですからちょっと気に入らなければ、お小姓が茶碗を割ったといって首を斬られますし、お菊みたいにお皿が割れたといってお化けになるほどいじめて殺されるほどの目にもあわなければならなかったけれども、明治の世にいくらか近代の国家になりましてから、とにかく法律というものができました。民法とか刑法とか商業に関する法律とかいろいろの法律がたくさん出ました。そして法律によって治められる国ということになりました。ところが明治時代から今日までにできた日本の憲法、民法、刑法その他のものを見ました時に、先程もいろいろの方がお話になっておりました通り、それは法律の恰好はしていても非常に変てこなのです。たとえば繰返し繰返しいわれているように、女の人が一人前になって結婚すれば一家の主婦ですから、今までの娘さんよりもっと責任がある筈なのですけれども、とたんに無能力になってしまう。つまりとたんに一人前でなくなってしまう。現実の生活と正反対なのです。そして分別のある立派な人が分別のないものとして財産を処理することも借金することも何にもできなくなってしまいます。それはたいへん不思議なものです。民法という大へん進歩的なようなものがあって、人民はどれだけの権利がある、どれだけのことをしてよいかということがきめられてありますなかに、女というものは裏返しになってそこに現われているわけであります。それから刑法はどうかといえば、民法とは逆に女を一人前として取扱っております。たとえば先だって子供を電車のなかで押し潰されたお母さんの話などは、あれは民法と刑法の裏返しのひどい例を説明いたします。このなかにたくさん奥さんもいらっしゃると思いますけれども、そういう方達は御自分が無能力だと思っていらっしゃらないし間違いとも思っていらっしゃらない。ところが民法では無能力であっても、もしあなた方が間違えていろいろな失敗をしてそれが刑法にふれますと、たちまち能力者になって、罰金をうけるのはもちろんのこと、ことによると牢屋に放り込まれて、いろいろな目におあいになることがよくあるのです。女の人が不幸になる条件を少くする筈の民法では半人前なのですけれども、不幸になってしまった結果に対しては、男並みの十分の責任を婦人は負わされております。そういう矛盾が民法とか憲法にございます。それから只今選挙がありますけれども、私達には公民権がない。だから私達はいろいろな行政機関のなかに役人として入ることができない。婦人がそこの機構のなかに入って働きますならば、配給の問題とか食糧の問題とかだいぶ実際的でよろしいのでしょうけれども、そういう役人になるための公民権はございません。
 それから今までの日本は半分近代化して半分はまだ封建的な気分が非常に強く残っております。それは言葉で申しますと、華族とか士家とかいうのはやかましい規定では身分なんですけれども、家庭のなかでも、同じお魚でもお父さんや何かにはお頭のよい方を差上げる。お魚の目玉にはビタミンAがありませんけれども、頭の方には栄養があるのかも知れません。とにかくお頭という意味で家のお頭に差上げるのでしょう。ビタミンが多いから差上げるという親切からでなく形式で差上げる。お頭にはお頭を差上げて、切身の尻尾の方は主婦がもらう。ところがこの頃のように尻尾のない場合もある。そうすると女の人は一切も食わずにがまんする。それを皆さんはお笑いになるから、恐らくあなた方の御家庭では、切身が三つしかないものでも半分ずつつけて召上っていらっしゃるのかと思います。それは大へん結構だと思いますけれども、よく女の方が一軒の家庭の話をなさいますと、「一切のお魚しかないものなら
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