ぱっと彼女のなかへ入ってしまわない。彼女と作品とが融合し溶け合わず、一つの肉体となってしまわないで、かの子さんのまわりに書かれた小説が立っている感じが苦しいのであった。
作者と作品の溶け合っているこの自然の力は微妙となって、例えば夏目漱石の写真を見たとき、人は、「吾輩は猫である」も「文学評論」もひっくるめて何となくわかった気がする。漱石の作品の全系列が人と一つのものとして、わかったという気持で映って来る。作品がどれ程巨大であり多量であろうとも、作者の質量《ヴォリューム》そのものの中にあってわかった感じがするものである。作家の資質のよさわるさ、大きさ小ささ、それなりにその人を見ると何かわかるところがある。作品のすきさもわかった気がし、きらいがあるとすれば、それも成程と肯けるものが必ずある。そして、これは決して、文学の専門的な何かを前提とするものではなくて、作家と作品の間にある血液循環、細胞関係の必然の結果であり、人間的な総括的な直感である。この事実は日頃あらゆる人々の経験しているところであると思う。
かの子さんの小説は、かの子さんの曲線、色、厚み、音調、眼の動かしかた、身ごなしすべて
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