ないような今日の文学の世界のところどころに、がんこに、屹立して、世界観その他の問題が脈絡なく突立っているようにも見えはしないだろうか。
 去年から民主的な文学の翹望が語られ、人間性の再誕がよろこびをもっていわれはじめたとき、これらの文学の骨格には進転のための歯車とでもいうべき諸課題について、もっとこまかに、歴史的に話しだされるべきであったと思う。そういう努力がされていれば、民主的ということの文学における今日の現実が、もっとしっくり文学自身の内のこととして身についたであったろう。文学の上に、民主的とか民主主義とかいう字が、ただとりつけられたばかりのように理解すれば、文学はいつだって文学でいいのだ、という居直りも、その感情の根源に主観的な必然を主張しうる。

        プロレタリア文学と新しき民主主義文学

 今年のはじめ、新日本文学会が結成の大会をもった。そのとき、一人の有名な作家が立って発言した。今日、プロレタリア文学のための集団といわずに、なぜ民主主義文学という定義をするのであろうか。はっきり、プロレタリア文学、といってしまったらいいではないか、と。一種の皮肉をふくませたニュア
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