ほんとのところを言えと言うと、殺人は、否定しているのだ。然し自分が殺した証拠が斯くも多数にあると言うと、理性からの判断では、本人と雖《いえど》も殺人を認めなくてはならぬことになる。斯う云う時に、理性の方を信頼して、現実の方を信頼しないと云うような趣がある。」
そこを予審判事が特別に注意したことから、無罪を証明し得るに至る過程は成立しているのである。
一般の読者は、この全く特徴的な数行を何等不思議な気がしないでよむのだろうか。探偵小説の読者というものは、こういう我々の常識で合点のゆかない現実の歪みも、承認するほど不健康な精神活動に馴らされているものなのだろうか。
良人に左翼女優の比叡子という愛人が出来、妻はそれを苦しみ、愛をとり戻そうとして自分を傷けたことから誤って死んだのであったが、法廷で、この女優が、殺人をおかさせたのは自分であると云う。その心持を、人間的な感情上の責任感として、あるがままに理解せず、木々高太郎氏はその心理を大変ひねって扱っている。
「私は今、あの時の比叡子の気持ちがわかります。私との間の、言わば恋愛が進行して、自分で自分がわからなくなったと言うので幾分かでも私を愛していてくれたことを信じます。然し私が捕えられてから、比叡子は再び、私をすっかり離れて、左翼的な気持になってしまっています。法廷で、私の証人に立った時に、自分も亦、殺人の罪を共にする筈だと言ったり、尚私のことを、自分のために妻を殺したのだと解釈したりしたのは、その証拠です。普通の人だったら、私が殺したのか、自殺なのか判らぬことは判らぬと言う筈ですが、そして正直な人はそう答えるでしょう。ところが比叡子が、殺人を犯させたのは自分であるなどと証言するのは、やはり左翼的な、合理的な、考え方に慣らされているのから出て来た解釈です。左翼の人は、日本とソビエットとを問わず、この合理的解釈を持っていますから、時とすると、真相を理解することが出来ないのだろうと思います。」
松本という予審判事は男の打ちとけた態度に好感をもったと書かれているが、読者は困惑と不快との感情にのこされるのである。
木々高太郎氏は、この小説の中で、現実と理性、合理性と現実というものを甚しい分裂、対立において示そうとしている。理性の具《そなわ》った人間なら自分が殺さないという事実は一見物的証拠が揃っていてもはっきり自分に分っている。だからその事実に立脚して外部的判断と闘うという風に考えるのは普通人の頭である。木々高太郎氏は、その「理性の方を信頼する[#「理性の方を信頼する」に傍点]」と云う内容を逆に見ている。殆ど正気と思われない程受動的な、被暗示的な精神状態において表現し、卑俗に云えば、「余りお前が盗んだと云われるもんでそんな気になっちゃった」という工合に扱っている。しかも、それがインテリゲンツィアは現実より理性にたよるからであるというような観方を結論で云われるのは現実的でない。常識の中で理性という言葉はそういう逆説でつかわれてはいないのである。
更に合理性を左翼の思想と連関させて、合理性では現実の真相を理解し得ないという風に強調されているのを見ると、ピンと来るものがあって、自然著作年表を見た。するとこの作は昭和十二年一月の作である。本年の作である。本年の一月頃から日本文学の動きは『文学界』を中心に、文学における科学的客観的評価の否定、合理的な世界観の拒否の声が一層高まり、昨今はこのグループによって変種の実証主義、信仰的体験への要求が提出されている。文化における極端な民族尊重の傾向と結びついているものであって、日本文学の発展の歴史において明瞭に後退と反動とを示しているものなのである。科学の分野で、統制の問題が論議されはじめたのとほぼ時を等しくしている。この時、木々高太郎氏の理性と現実の乖離を強調した作品が生れたのは単なる偶然であろうか。
現実は批判する
志賀直哉氏の昔の小説に「范の犯罪」という題の作品がある。これは范という支那の剣つかいの芸人が、過って妻を芸の間で殺し、過失と判定されるのであるが、妻を嫉妬し、憎悪が内心に潜んでいた自覚から、法律の域外の人間的苦悩を感じる主題であったと思う。志賀氏の作品と探偵小説とを同日に論ずべきでないが、しかし、日本のインテリゲンツィアの思想史、生きる態度、人間性の質量と方向の推移とをこの二つの作品によって調べることは可能である。
志賀氏の場合、范の理性は、法律上の物的証拠よりより深い人間的心理の現実、その真実に向って働いている。木々高太郎氏の主人公は、理性にたよる[#「理性にたよる」に傍点]ものだから、つい本当でもないことを本当だと承認することになる。この場合、理性、或は知性は喪失したものとしてしか実際に現れていないのである
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