作家のみた科学者の文学的活動
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)撥《はじ》き合った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)文学的[#「文学的」に傍点]であるとして
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        「生」の科学と文学

 随分古いことになるが、モウパッサンの小説に「生の誘惑」というのがあり、それを前田晁氏であったかが訳して出版された。私は十四五で、その小説を熱心に読んだ。なかに、パリの社交界で華美ないかがわしい生活を送っている女の娘が、樹の下の草にねころびながら、男の友達に本を読んで貰っている。美しい娘は草の上にはらばいになって手に草の葉をもち、そこにつたわって来ている一匹の蟻を眺めてそれと遊びながら、蟻の生活を書いた本を読んで貰っている。その光景がモウパッサン一流の筆致で活々と描かれていた。
 ファブルの名を知ったのは、多分これがきっかけであったと思う。それから、ファブルの昆虫記をすこし読んだが、これは何冊も読みつづけることが出来なかった。どういうことが読みつづけられない原因か考えていなかったのであるが、昨年本ばかり読んで暮さなければならない生活に置かれていた間に再びファブルやその伝記「科学の詩人」にめぐり会い、科学と文学というものについて新しく感想を刺戟されたのであった。
 ファブルの伝記をよむと、彼が同時代人であったチャールズ・ダアウィンの科学的方法、生活法に内心猛烈な反撥を蔵していたらしい。ダアウィンの境遇は謂わばよい意味でのお坊ちゃん風な色調がつよいのに反して、ファブルはコルシカ辺に教師をしたりして貧困と窮乏と闘いつつ、自分の科学への道を切りひらいて行っている。イギリス人とフランス人、特にドウデエなどがまざまざと特徴づけている南フランスの血が、ファブルの気象の中で境遇的にもダアウィンと撥《はじ》き合ったことは人間生活の画面として無限に興味がある。
 素人でよく分らないけれども、ダアウィンが帰納的に種を観察し、進化を観察して行ったに対してファブルが、どこまでも実証的な足場を固執したのも面白い。だが、ファブルの或る意味での科学者としての悲劇は、寧ろそういうところにあったのではなかろうか。
 ファブルはダアウィンの著作を退屈でやり切れぬものとして軽蔑している。事実ダアウィン自身文章をかくことはまことに苦手で、はじめと終りの脈絡が書いているうちに自分でもわからなくなるような時があるとかこっている。然し今日のわたくしどもは、却って退屈なダアウィンの方が、ファブルより科学の本としては却って親しめるのである。ここに科学者によって考えられている文学的なるものの微妙な問題がかくされていると思うのである。
 科学は理性の主動するもの、芸術文学は感情、感覚が主として発動するものという簡単な区分の方法は、今日科学者の理解からも文学者の理解からも、もう少し複雑に、所謂《いわゆる》科学的に高められて来ている。ファブルなどの時代では、文学に於ても十分問題である擬人法のロマンチックな色彩の横溢が、文学的[#「文学的」に傍点]であるとして考えられていたらしい。冷たい、理知だけの操作でない、対象との人間らしい共感においての観察という点の強調が、虫に頬かぶりをさせたり、草叢のアパッシュたらしめたりした。ファブルの伝記者は、アナトール・フランスがファブルの文章は悪文であると云ったということをおこっているが、今日の第三者は、フランスはやはり文学の正道から見ての真実を云ったと思わざるを得ないのである。

        科学と文学の交流

 よく科学者に珍らしい詩人的要素とか審美的な感覚とかいう表現が、一つの讚辞として流用されている。故寺田寅彦博士の存在は、文化の綜合的な享楽者または与え手という意味で、多数の人々の敬愛をあつめている。絵も描き、文章に達し、音楽も愛し、しかも音楽(セロ)の演奏ぶりなどにはなかなか近親者に忘れがたい好感を与えるユーモアがあふれていたようである。日本の明治以来の興隆期の文化は、夏目漱石でその頂点に達し同時に漱石の芸術には、今日の日本を予想せしめる顕著な内部的矛盾が示されている。
 寺田氏の文化性というものも、日本のその時代の特色を多くもっていると思う。社会的な境遇から云っても、寺田氏にあっては好きな勉強の主な一つとして科学が選ばれている。氏の文章をよむと、科学的なもの、文学的なもの、絵画的なものが一箇の能才者の内部に綜合された諸要素として立ち現われて来ている。寺田氏の科学的業績を云々する資格はもとよりないのであるけれども、文学的遺業について見ると、寺田氏がこの人生に向った角度にあらそわれぬ明治時代色があり、同時代の食うに困らなかった知識人の高級なディレッタンティズムが漂っている
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