形態利害擁護の姿でだけ素朴にあらわれるものではないのである。忌憚なく云えば、石原氏がナチとソ連の科学政策をその現実の本質につき入って比較する力を欠いておられる事実なども、社会悪が最も複雑微妙な作用としてあらわれて来ているところの科学精神における一つの決定的マイナスなのである。
科学精神における、こういうような、多種多様で且つ隠微な形のマイナスの侵入は実に危険であると思う。何故なら、科学性の客観的敗北は常にこの盲点を契機として行われ、しかもそれが敗北であることがどうしても自覚され得ないという危険をもっているからなのである。
科学者の随筆的随想
科学者の社会的関心が積極的になった一つの表現として、一般のジャーナリズムの上での科学者の文筆活動の旺になったことが挙げられていることがあった。特に知名な科学者の随筆などが求められる傾きがつよくあった。注意をひかれざるを得ないのは、一部の科学者をジャーナリズムに招き出したこの時期は、読書人の間に随筆が迎えられた時、内田百間氏が「百鬼園随筆」によって第一段の債鬼追っ払いをした時代であり、日本文学の動向に於てかえり見ると、これは明瞭な指導性をもつ文芸思潮というものが退潮して後、しかも今日では被うべくもない文化に対する統制が次第に現れようとする時であった。森田たま氏の「もめん随筆」などが目前の興味の対象となった時代である。科学者の随筆が求められたのも、独特な科学随筆を要求されたのではなくて、ああいう人がこういうものを書く式の興味によってもとめられたのであった。
従って、科学者の随筆は、所謂科学的な態度ではない文学的と思われる方に傾き、そのことでは自覚されない底流で、科学精神の分裂を許したとも云えないことはない。文学そのものが客観的現実に対する眼光の確かな洞察力を失い、創造力の豊かな社会的地盤を失った時、よりイージーで小規模な人生と芸術への主観的角度をもつ随筆の流行を見るのであるから、この意味で科学者の無方向な随筆活動への参加は二重の力で文化を下り坂に押す結果にさえなるのである。
探偵小説の面白味というものの真髄はどこにあるのであろう。そして、外国ではどうか知らないが、何故日本では医学方面の専門家が、この探偵小説を執筆するのであろう。法医学的な分野で接近があり、心理学、神経病理学とのつながりがあるからなのだろうか。現在行われている探偵小説、怪奇小説の類は退屈しているもの、毎日の生活感情に自主的弾力と方向とをもたないものが、面白がって熱中するのであろうと思う。この種の物語は最後に必ず解答が出て来るという厳然とした約束に立っている。しかもそこまでを、出来るだけ迷路にひっぱって、模造の山河をしつらえて、引きまわされるのを承知して引きまわされてゆく面白さである。
科学的構造が精密であればあるほど謂わば嘘の過程に複雑さがあって、面白いのだろう。或る意味での知的デカダンスである。智慧の輪の好きな人間ときらいな人間がある。きらいな人間の方がより真実の意味でインテレクチュアルであるし、溌剌として現実的である。
科学者が自身の科学的知識によって文筆上いろいろ遊ぶのがいけないと一口に云い切れないかもしれないが、少くとも本当の科学者であるならば、科学の健全性、啓蒙性に沿って、こういう種類の余技、或は道楽をするべきであると思う。それは科学者としての最小限の義務ではなかろうか。
科学と探偵小説
木々高太郎氏は、執筆する探偵小説によって賞をも得たことは周知であり、パヴロフの条件反射を専攻されている医博であることを知らぬものはない。同氏の『夜の翼』という探偵小説集が出ていて、それを読み、漠然とした愕きに似た心持を得た。多分『条件』という題で同氏には随筆集もある。それを読んでおらず、他の探偵小説集もよまず、只一冊だけについて物を云うのは、狭い結論をひき出すかもしれない。が、もし『夜の翼』が氏として余り確信のない作品集であるのならば又それはそれとして、失敗の中にあらわれている失敗の本質やその傾向がやはり観察の対象とされ得ると思う。
この集の巻頭にある「無罪の判決」の中には探求すべきいくつかの問題がかくされているのである。話の筋は、氏の得意とされる馴れの行動[#「馴れの行動」に傍点]による知識人夫妻の悲劇的殺傷問題である。良人が兇器をもって不自然に死んだ妻の傍に立っていた。だから良人が手を下したのではないかという疑いは一応誰しも持つであろう。実際は誤った自殺であった。五十一頁に亙る探偵小説は、主人公が「現実と理性との薄明にさ迷っている知識階級で」あり「このような知識階級にあり勝ちな、殊に斯う云う犯罪事件に際して出て来る特徴は、どうも現実を理性で納得させると云う趣があることである。
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