ここに一人の女がいて自分がその男を愛し、恋愛的交渉にあるためにそれを苦しんだ妻が自殺したという時、自分が間接その死の原因となっているという気持を抱くのは人間として所謂人間的な心理であると思う。又人間相互の生活感情、社会関係の現実における複雑な作用のしかたの実際でもある。范の場合、一人の人間の運命に対する主観的な愛憎の責任、その責任感の自覚という追究で、テーマが深められた。木々高太郎氏の作品では、殺すという行動を機械的に殺しの操作それ自体に切りはなしてしまって、比叡子の心持を、合理性そのものの解釈においてさえ歪曲されている合理主義で批判している。概括して二つのいずれが、よりリアリスティックな誠意をもった現実把握の態度であるかを云うには及ばないのである。
「無罪の判決」という一小篇探偵小説の中に、なかなか無邪気ならぬ或る種の現代文化の動向を反映しているこの作者は「盲いた月」で一寸したヒステリーに関する科学的トリックを利用しつつ、ウィーンにおける親日支那青年李金成暗殺の物語を語るなかで、「支那人を捕える方法を知っていますか。それは在住支那人の数名のものを買収なさい。日本人を捕える時には、それは不可能ですが、支那人を捕える時には、それが唯一の手段です。」
というような辞句を示している。去年の秋の作品であるが、この粗大な、民族的類型化を卓抜な科学者であるという沼田博士に云わしめているのである。アメリカに移民として働いている日本人の不正入国をしたものが何より恐れているのは、アメリカ人であるか、ニグロであるか、或は同じ日本人であるか。
 科学者は科学的であるかという悲しい疑問が心に湧くのを抑えがたいのである。社会の歴史の或る波によっては、非科学的な科学と科学者が特にジャーナリズムの表面に浮上る場合がある。或は、今日における科学と科学者との弱い部分、非科学的な部分、内部的分裂面が文化反動に影響され、客観的には、知性、人間性の圧殺に加担したことになりやすい。今日はその危険に対する自他ともの慎重な戒心が決して尠くてよい時期ではないのである。[#地付き]〔一九三七年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「科学ペン」
   1937(昭和12)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング