も自分で歪みの見えない主観のなかに立てこもることで、即ち評論から随想へ転落する方便に求めていず、刻々の生きた動を執拗に文学の原理的な問題に引きよせて理論的に追究しようと努力しているというのも、つまりは批評というものがそれとして、批評家の意識や能力にかかわらず指導性をもつものであるという、その現実に向っての忠実さによるものなのだと思われる。
もし『現代文学論』に何かの物足りなさを感じる読者があるとすれば、その理由の一つには、昨今、評論と随想との区別がごちゃごちゃになって多くの評論家は現実評価のよりどころを失ったとともに自分の身ぶり、スタイル、ものの云いまわしというようなところで読者をとらえてゆく術に長けて来ているため、読者の感覚が、現実と論理の奇術は行わない本筋の評論の骨格になじみにくくされていることがあげられるのではなかろうか。
更に本筋の評論として、まだもっと何かをと求めるものが読者の心にあるとすれば、それは、この著者がこれまではどこやらいつも自分の照れ臭さを克服しきれないで、一気に自分の主題を歩きぬけて来ている、その力まけのようなものから生じている線の細さというようなものでもあ
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