馬鹿に見えるのじゃないだろうかというような言葉があって、それを読んだとき何だか喫驚《びっくり》した。博覧であるとか、強記であるとかいうことは、それだけ切りはなして云われれば全く意味も価値もないことだし、よしんば、それらの条件を批評家として活かしているにしろ、やはりひとが馬鹿に見えるというようなことと一つことにはならないだろうと思われる。
『現代文学論』を読むと、著者の気質は、ひとが馬鹿に見えるというような或る意味でののほほんとは、全然対蹠的だということがわかる。寧ろ、「私の批評家的生い立ち」の前半に語られているように、「評論を書いていると、論理の容赦なき発展が、逆に私自身に何か哀愁をさえ感じさせる」という感じやすさがつよく現れている。評論における「現実認識の直接性が、自己の生身の存在に対して上位にあるかの如き意識を絶えず感じさせられている。批評家は作家たちに対してのみならず自分自身に対しても照れ臭いのである」これもなかなか含蓄のある感情だと思う。この著者が、そのようにして批評家として自分の書くものから蒙る「逆作用」のなかに生きつつ、他の多くの例に見るように、それへの内面的抵抗を、歪んで
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