私の心に作用した。そこには、はっきりした比較が生じ、たとえばそうして大したこともない屋上風景を眺めていても、その光景にある意味はベルリンの公園にあるものとは全く違うものであることが、感情として会得されるのであった。私の友達はすでに帰国の準備をはじめ本を買い集めたり、予約出版の引つぎをたのむひとをさがしたりしているのであったが、私の心持にはそれが逆に影響して、益々モスクワの生活に引きつけられた。
 だんだん眼の色が凝って燃えだすような視線で私が向いの屋上を眺めていると、もう一つのテーブルのところから友達が仕事をしながらの声で、
「そろそろ時間だよ」
と注意した。
「ふうむ」
 私は水色のジャンパーの上から外套を引っかけ黙って部屋を出た。友達のところへ語学の教師が来る。その間、私はいつも街を歩いて来るのである。
 トゥウェルフスカヤの広い通りをプラウダ社のある方へ人波に混ってゆるやかな坂を登っているうちに、私は一つの明瞭な苦痛の感じにとらえられ、自分の歩いていることが分らないような心持になって来た。今この通りを右にも左にも前にも後にも陸続として進んでいる群集にとって私は何者であるだろう。様
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