調味料をほしい。物価が安くなってほしい。読みものがほしい。家を建ててほしい。家の中を楽しいところにしたい。そして、母がいればよい、という希望が答えられてあるのをみたとき、私たちの心は、おのずからその母という字を父という字におきかえます。父がいればよい、と思っている子と母は、いまの日本に余り多勢です。お母さんがたは、子供たちの希望がこんなにそっくりそのまま、母であり主婦である御自分たちの希望と一致していることに、おどろきになりはしないでしょうか。
子供たちの課目のなかに社会科が出来たということは、子供と先生とだけのことではありません。学校を、町を、家庭を、すこしでも住みよいところにするためには、お母さんがたの力量が待たれています。子供たちと母親たちとが協力して、住んでいる町にたった一つ、子供の遊び場がこしらえられないでしょうか。家庭をたのしいところとしたいという子供の希望について、親たちが互の暮しぶりをうちあけて研究しあうことは無意味でしょうか。
読みものがほしい子供たちのために、このごろポツポツ出来はじめた婦人と子供の図書館の利用法を考えてゆくのは無駄でしょうか。
もとの日本では、子供の教育に責任をもつのは、父兄であるとされていました。けれども、日本の教育方針が改められて、軍国主義の教育をすて、国民の一人一人が社会を運営してゆく能力をもつために民主的な教育が要求されてから、母も父と並んで、子供の未来に重大な関係をもつものであることがはっきりして来ました。この頃、小学校に出来た「両親と先生との協議会」はそれです。日本の一人一人のお母さんは選挙権や被選挙権をもっているばかりでなく、ほんとに母として、子供と一緒にこの社会をよくしてゆく権利と責任をみとめられたわけです。
今日の日本の主婦はうち[#「うち」に傍点]のことで精いっぱい、というのは事実です。だからこそ、ことしは、民主的に托児所をこしらえようとする動きもおこっても来ているわけです。インフレーションのせつなさはどこでも主婦の胸にこたえて、主婦も何かで家計の増収をはかりたい希望があります。子供をかかえた未亡人も、三年目のことしは、もう行きつくところまで来ました。子供があるからこそ、働く必要は一層痛切だのに、その子供のために勤められず、まとまった内職も出来ないという事情のために生れている悲劇はどんなに多いでし
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