の主観は、少くとも或る人間的なものの歴史的主張の欲望に立って、その欲望の正当性の抽象化した過大評価から作品のリアリティーを損ったのであった。今日において、作者は、多く主観をひっこめて、現実のあるままの姿を描こうとしているようでありながら、その現実をうつす鏡は作者が今日の生活の波濤に対して辛くも足がかりとして保とうとするその人々の形而上学であると思える。この事実は例えば「幸福」における公荘一のありようを見ても、「若い人」における作者石坂氏が自身の芸術活動のモティーヴとして固守している超歴史的な本然性・人間性の主張、系統ある行為の目的性などを否定するという彼の系統だった現実への態度として明瞭に見られるところである。
阿部知二氏は「幸福」を今日の漱石文学とし「こゝろ」や「それから」に一縷通じるものとの念願に立って書かれたのだそうである。「こゝろ」の先生という人格や「それから」の代助と、公荘とを比べる人の心に、果してどのような感想が湧くであろう。漱石は彼の明治四十年初期の環境において、過去の形式的、馬琴的道徳と行為の動機における「自覚されざる偽善」とを烈しく対立させた。習俗が課すしきたりの行
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