の出来ない意義の一つは、社会的現実の必然につれて、文学価値の内容として社会性を正面に押し出したことにある。プロレタリア文学運動の後退は、とりも直さず日本の全住民の思想的自由の限界の縮小である。過去数年間、新しき文学と作家の社会性拡大のために先頭に立っていたプロレタリア作家たちが、続々とあとへすさって来て、林氏のように自身の文学の本質を我から切々と抹殺し、或は西鶴を見直して、散文精神を唱え出した武田麟太郎氏のように一般人間性、性格、現実の文学的反映を云々するようになったことは、一見、これまでプロレタリア作家と純文学作家との間にあった摩擦を緩和し、文芸復興という懸声の下に参集せしめたようであって、実は、益々文芸復興なるものの空虚さを明らかにするに過ぎなかった。
文芸復興の声は大きいが、文芸を復興せしめるに足るほどの作品は容易に生れて来ない。その困難を切りひらくための具体的な第一歩として、古典の再評価、作家の教養ということが続いて云われはじめた。トルストイ、ドストイェフスキー、特にこれまで日本に十分紹介されていなかったバルザック、スタンダール等の作品は流行となって翻訳、出版された。なかでも
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