テリゲンツィアの動向との関係として自身の敗北をも追求し、芸術化そうとするところまで腰が据っていなかったことは、今日の文学を語る上にも決して見逃すことの出来ない重大な点である。
過去の若かった左翼の運動の日本的特徴の一つとしてあげられる素朴な英雄主義・公式主義と云われたものを発生させていた社会的原因そのものが、敗北に際しては裏がえしとなって現われた。一定のイデオロギーに対する人間的弱さ、箇性の再発見、インテリゲンツィア・小市民としての出生への再帰の欲望などが内的対立として分裂の形で作品にあらわれ、傷いた階級的良心の敏感さは、嘗てその良心の故に公式的であったものが今や自虐的な方向への拍車となりはじめた。
この現象と一方に囂々《ごうごう》たる響を立てている文芸復興の声とは互に混りあい、絡まりあって、社会性を抹殺した文学熱、箇人化された才能の競争で一般的人間を描かんとする熱を高めたのであった。
ここで注目をひくことは、プロレタリア文学運動の退潮を余儀なくした社会事情は、同時に所謂《いわゆる》純文学の作家たちの成長してゆく条件をも貧弱化せしめたことである。
プロレタリア文学の否定すること
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